もう大丈夫だと

「精が出まスねぇ」 「ランダだ。何でいるの?」 「やぁ、若き吸血鬼の族長様の御機嫌伺いでスよ!」  紫色の炎に照らされた一室は、酷く寒々しい。  石の壁も卓も全て色を濁らせ、本当はどうだったのか忘れてしまうほど、部屋は古くからある。 「もうすぐ、魔界に住めなくなるッスね」  ディアボラは顔を顰めて舌打ちした。 「何、私の研究が捗ってないから嫌味でも言いに来たってわけ? やだねやだねぇ。なら君が変わってよ。そもそも私達は人体の構造には詳しくても田畑のことは専門外なんだけどぉ」 「や、そんなつもりは無いッス! ただ、そろそろ死霊も必要になってくるでしょうから、死体なんぞあったらいただきたいなぁって思ってましてね!」 「そんなの無いよ。前言ってた研究、完成したんじゃないのぉ?」 「えぇ……いや、それがまぁだ不完全みたいで、意識が曖昧なんスよね。実験で潰した奴は肉壁にも使えなくなりまスし……だから食べカスでもいいんで、いただけないかなぁって」  それ前にも聞いたけどなぁとぼやきながらディアボラは記憶を遡る。しかし、与えられる死体は今のところ無い。そう告げればがっかりしたランダはフードの下でため息をついた。 「その研究って、もう三世紀は続けてるよねぇ」 「やぁ、なかなか難しくて。兄ちゃんが復活すればすいすい進むと思うんスけどねぇ」 「そのお兄さん生き返らせる研究じゃん。復活したらもう目標達成でしょ?」 「いやいやとんでもない! 不老不死、死者蘇生。両方やらないとッスよ! もう悲しいのはごめんでスからね!」 「はいはい、研究が成功するといいねぇ。ここにはランダが欲しい物はなぁ~んにも無いから家に帰りなよ。私だって捗ってないんだからさ」 「おぉっと失礼しあした! でも、大地を元に戻すなんてどだい無理な話じゃないッスか? どうして腐っているかも、アタシ達の体がどうなってるかもわからないんじゃぁ……」 「ランダ」  凄まじい勢いで振り返ったディアボラは、殺気の籠もった視線で射貫く。 「それ以上、口を、開くな」  区切るような言葉に隠そうともしない殺気が込められ萎縮したランダは小さく頷いた。 「ディ、ディアボラ様、悪かったッス。悪気はなくて……」 「わかってるよランダ。だけどね、私はお前にそれを言われたくない。あぁ言われたく無いとも! 確かに不可能に近い! 近いが現実に起こっただろうが!!」  クズめ、と吐き捨てたディアボラはイライラするのも隠さない。 「……けど、それは神人だからこそできた事で」 「だまれ!!」  今度こそ口を閉ざしたランダは震え上がった。今や弓のようにつり上がった目尻に気だるげな雰囲気は消え口調さえ変わり、激しい怒りに塗りつぶされている。剥き出しの牙の奥から黒い煙がもうもうと吐き出され、彼の顔面を黒く覆う。 「二度とその話をするなと言った! 出ていけ!!」 「ひっ」  拒絶に怯えて逃げ出すランダの足音が消える頃、冷めやらぬ怒りに身を震わせながら、半分開いていたドアを乱暴に閉める。  ドサリと座ったソファーが埃を上げて軋んだ。膝に立てた腕で頭を抱えるようにしたディアボラは、怒りで周囲の物を壊さないよう身を丸める。 「神人にできて、私達に出来ないはずがない……!!」  それは子供が癇癪を起こすような叫び声。 「あと百年、まだ時間がある。魔界は滅びない。私達は故郷で生きていける……」  そうだろう? と上げた瞳は空虚だった。だが歯を食いしばり涙がぼろぼろと落ちている。そこに居る誰かに問いかけるようにディアボラは呟き続ける。 「あなたに出来て私達が出来ないはずがない。……あなたはそう言ったじゃないか。悪魔も再生できると。壊すことしか能が無いわけではないと……!! なのになぜ、なぜあなたのように出来ない」 「……ディアボラ様、お疲れではありませんか」  それまで置物のように微動だにしなかった吸血鬼が、壁から離れ膝をつく。焦点の定まらない彼の顔を覗き込み、虚ろで痩せきり尖り切った顎を見て、痛ましそうに目を細める。 「今日はもう眠りましょう。もう一月近く眠っておられない」 「理論は完璧だ。それに近い現象も出ている。なのになぜ、なぜ――」 「大丈夫です、まだ百年あります。ここまでたどり着いたなら後一息ですよ」 「一息……そう、かなぁ。そうなのか?」 「ええ、そうです。さぁこちらへ。なにか暖かい物を召し上がって眠りましょう」 「あぁ、そうだな。そうするよ。お前も休めば良い。もう少しで終わるからなぁ……ア゛ァ。シティパティ様の研究も進めなければ……魔界の植物をエディヴァルに。研究してもしても、終わらないなぁ」 「お休みして、それからまた考えましょう」  強引に部屋からだせば、回廊の方が空気が良い。背後の澱んだ一室を一度だけ振り返ったディアボラはふらふらと押されるがままに進んでいった。 「そうだ、殿下はどうしている?」 「……お悲しみに」 「アエーをよく慕っていらっしゃった」  ぽつりと呟けば、長い沈黙が続く。そっと吸血鬼がディアボラを見つめれば、酷く悲しそうな顔をしていた。 「おつらいのは殿下だけではございません。あの方は真に、武人でいらっしゃった」 「悪魔のくせに、高潔だったな。悪魔のくせに!」  笑い飛ばしたいのに声に力が出ない。ふと腕を見れば骨のようになっている。いつから食事を取っていないのか覚えていない。それほど長く絶食していたようだ。 「私達はいつ、この業から解き放たれる。いや、そんな日は来ないのかもしれない。けれど、願っても良いのだろうか。神人を殺してしまったのに生き続けてもいいと、お前は思うか?」 「ディアボラ様、そろそろ人が」  答えてやりたかった。けれど場所がそれを許さない。  ディアボラはその言葉を聞くとしゃんと背筋を伸ばし手袋で指先を覆って隠し、不敵な笑みを浮かべる。 「ア゛ァ、食事はいつもの通りにしてくれ。しかぁし、今日は疲れたなぁ。もう寝るけど、準備をしておいてよ。明日は昼まで起こすなよぉ」  慇懃に頭を下げた吸血鬼は主人を寝室に運ぶと手配に向かう。廊下を行き交うのは吸血鬼に淫魔に化け物。空には怪鳥がけたたましく鳴きながら旋回し、空は黒く澱んだ空気が舞い上がっている。独特の腐敗臭に鼻が曲がりそうになったのは数千年前で、既に慣れてしまった。今や料理の香りさえわからない。  魔界はゆっくりと腐り落ちようとしていた。 ★★★ 「いつまでふさぎ込んでおられるのです。もう猶予はございませんよ。アエーは命を賭けて殿下の望みの手助けを。そして私達もまたそうなのです」 「その話は聞き飽きた。……お前に言われなくてもここ数万年、ずっと考えている。抗うことに意味はあるのか。神を楽しませるだけで、果てにあるのは絶望だけじゃないのかと」 「退廃の香りがすると? それが臭うのは今更ではありませぬか」 「多くを殺し、多くを壊し、何も作らず欲望に身を任せ……果たしてなぜ、我々は存在しているのか」 「哲学でしょうか」 「そうだと言ったら?」 「浅学の身ゆえ、お答えできる言葉を持ちません」  つまらないな、と青年は呟いて膝に顔を埋めた。 「パティはどうしている?」 「欲望に身を任せていらっしゃいます」 「……破壊と混沌を好んだ王女。王座についてもかわらない」 「いいえ、王座に慈悲深くする機能はございません。王座は欲望の権家にございますれば」 「わかっている。わかっているから逃げたんだ……お前達はなぜ、放っておかなかったのだろう」 「それは殿下が」 「――お前が持ちかけたんだろう?」  不意に、鬱鬱とした話を切り裂いた声音の主は、乱暴に戸を開けた。 「くっせぇなぁ」  ラルラは鼻の頭に皺を寄せながら首を振る。 「他のどんな動物より、お前達はくせぇ。鼻が曲がりそうだ」 「何の用だ」 「お前の望みは叶うかもしれねぇって事を伝えに」  はっと顔を上げた青年は青白い頬に驚愕を浮かべる。見返すラルラは面白くなさそうだ。腕組みをして、戸口に背を預ける。 「滅びたのではなかったのか!」 「黙れ!!」  吼えるように怒鳴り、続ける。 「お前達悪魔のせいで追い詰め数を減らした! 伝えるだけでも剛腹だが、契約だ、仕方ねぇ。だがこれ以上は教えるものか」 「待てっ!」  しかし精神体を解いたラルラはあっという間に消え去った。  開けっ放しの戸を見てしばしぼんやりしていた青年はゆっくりと歩き出した。 「殿下」 「……探しに行く。心当たりを知りたい」 「でしたら、ディアボラ様に連絡を……それから少し、外の空気を吸った方がよろしいのでは」 「悪魔は大地を腐らせる。外に出ればそれだけパティに見つかるだろう」 「言い訳では? 殿下はただ、外に出たくないだけです」  むっとした青年を見ながら続ける。 「催し物がもうすぐあるそうですので、それを見てきてはいかがです」 「……あれは、嫌いだ。音など聞いても理解できん」 「教養の差では。私には素晴らしい物に思います」  お前は失礼だな、と呟いた青年は一歩踏み出す。暖かな日差しが肌を焦げ付かせ、一瞬頬が引きつるが暖かい。  光りを抱くように両手を広げれば、煙が噴き上がった。太陽の浄化作用で皮膚から煙があがっていく。それはゆっくりと大気に混じって消えた。 「いつか魔界もこんなふうに戻るだろうか」  独白し、歩き出す。 「戻したい」 -------- 五章(完)