去った

「お帰り、お姫様」  一目見たとたん、もう終わりなのだとわかった。木葉が地面に落ちるようにアシミの言葉に何かが終わる。彼は変わらずハルを見ているというのに。 「君は選んだみたいだね。最期の話を始めようか」 「!」 「ハル」  ロゼが耳の裏をくすぐるように鼻先を寄せてくる。 「会えてよかった」  震えだしたハルは必死で鼻先をロゼにくっつけた。  やだ、やだ。と何度も繰り返す。 「勝手に連れてきて、勝手に置いていくの? そんなの酷い!」 「あなたを置いて死んでいったこと。一人にした事、何も残してやれなかった母親を怨んでいる?」 「そんなことっ」 「無いと言えるの? 絶対に?」  口ごもったことが答えだ。 「でも、どうにも出来なかったはずよ」 「そうやって物わかりのいいふりをしないで。責めていいのよ、事実だもの! 私は母親でありながら、あなたを守ってやれなかった。寂しがらせてごめんなさい」 「違う、いらない。そんなのいらない! どうしてそんな事、今言うの!」 「もう一度、お別れをしなきゃいけないからよ」 「どうして!? わたしも一緒に行く! ずっと一緒に居る!」 「迎えが来たからには、そうはいかないわ。それにもう、望んでなんていないでしょう?」 「それは、でもっ」 「ハル」  呼ばれ、一瞬だけ振り返ればカリオンが言った。 「今しかないぞ」  再びロゼを見上げたハルは、混乱しそうになりながらも叫ぶ。 「わたし、確かに思ってた! 誰かがいたらいいのにって。そうしたら、こんなに悩まず生きてたと思う。でも短命種クオルトさえいなければ!」  心の有様を他人のせいにして責める。  全てが醜い。ハルはそんな自分が大嫌い。 「わたしを殺した奴らが憎くて、汚い自分が嫌で仕方なかった。このまま終わるのが辛くてエディヴァルに生まれたの。望んだことなのに、でも辛くて、辛いって思うのが狡いと思ったわ。だって神の規律はわたしには不釣り合いなくらい気高かった。相応しくないと思ってた。皆のようになれないの」 「儂らのように? 本当に違うのだろうか……これほどまでに短命種が憎いというに」  老獣が進み出てハルに告げる。 「あいつらは醜い欲望の権家。儂の子らをなぶって殺し、神木を枯らし切り倒し、悪魔とさして変わらぬ存在よ。アレを愛することなど出来ぬ。儂が生きている内に、絶滅してほしかった」  「さて、姫よ」と老獣は続ける。偽りなき本音を聞いて綺麗だと言えるのか、と。 「儂は思わぬ。そして美しいとは何だ。確かに短命種の中には光る魂を持つ者がいる。しかしその誰もが美しいか。慈愛が形を取ったような者もいただろう。しかし突き詰めればそれは無償の愛ではなく自分のためだったはず。命を賭けて自分のために他者に命を捧げようと覚悟を決める。その気持ちが短命種を光らせた」  そう感じる、と言い老獣は口を閉ざす。 「私も短命種が憎い。彼らが滅びないのが憎らしいし、どうにかして懲らしめてやりたい」  隣の獣が言う。  若い雌の獣だ。 「彼らは思いつく限りの酷いことを今までしてきたし、またエディヴァルに生まれたなら復讐したい。でも、きっと忘れてしまう。だから今までここにいたのよ」  更に隣の彼女は「私は美しくなんてない」と言う。  口々に、彼らは偽りなき本音を告げる。  愛する者と引き裂かれた苦しみ。憎んでどうすることも出来ない苛立ちを。 「さて、ハル」  全てを聞き終えた後、アシミは問いかける。 「君が思っていることは誰もが考える事だよ。これが醜いならそうなんだろうね。でも、ぼくは正当な気持ちだと思う。辛く当たられれば嫌だし、酷いことをされれば相手を怨みたくなる。聖母ではないんだ、当たり前だろう?」  「皆君と一緒だよ」と泣いているハルの目元をすりながらカリオンを見つめる。 「妖精族との混血児だね。名前はカリオン? ゼーの血を引いてるだろう」  知っているさ、と続ける。 「彼も短命種だ。だけど君は怨んでる? 嫌っている? 答えは分かっているよ、お姫様。本当に嫌なら指先すら触れさせない。ほんの、数瞬でも」 「でも、わたしっ」 「彼とぼくら、そして君とに違う所なんてない。だから何も怖がる事なんてない」  その言葉は、ハルに衝撃を与えた。 「君は不安がって寂しがってる。その根本的な理由は自信のなさだ。だからこんなふうに泣いている。それはもう、わかっているね? でも、迷うのは終わりだ」 「どうして?」  一瞬、言おうか迷ったのだろう。しかしアシミは告げた。 「君の心は何があっても大丈夫。もう一人きりでないとわかったし、寄り添う者もいるし、何よりぼくらが許さない。ここへは二度と来られない。生きているうちはね。そのときはもう、ぼくらはいないだろうし」  周囲に群生していた花も木々も全てが砕け散り、世界はただ白く平坦に伸びる。  獣達の足場を残し世界は白く変革した。地平線まで続く緑は潰え、行き先を消してしまう。 「お別れの挨拶をしよう」 「アシミ?」  老獣が進み出てアシミは場所を譲った。相変わらずのパサパサの毛が近づいて、ハルの右の瞼に老獣は鼻先を当てる。 「お前はちっとも<神眼>の使い方がうまくならなかったな。儂は四つ目まで開眼したと言うのに。致し方ない……記憶をやろう」 「え」  刹那、瞼の裏が銀色に光った。はっとすれば、そこにはもう老獣の姿は無い。  次の獣がやってきて言う。 「私は細い場所を走るのが得意だったわ。その時の記憶をあげる」  左の瞼に鼻先を押しつけられる。そうすればまた、瞼の裏が光る。  次々と列を成して獣達がやってくる。上から見れば、まるで銀の輪のように見えただろう。 「いやよ、なにするの!」 「もう迷わないように、獣の営みをあなたに贈るわ」  そう言ってまた瞼に鼻先を当てられる。自分の中に何かがたまっていくのが分かった。  口付けの後に、彼らは彼らの道を辿って神の御許へ還っていく。  総毛立ったハルは叫ぶ。 「どうして! そんなのいらない、欲しいなんて言ってない!」 「いいや、君は欲しがった」  アシミは残酷に続ける。 「欲しがった、そうだろう? ずっと欲しがって泣いていた! これがあればもう迷う事なんてない。ほんの些細な営みだけれど君が迷わなくなるのは十分だ。ぼくらは幸せだ。死してなお残せる物があった」 「いらない! いらないから逝かないで!」  懇願を聞いても、彼らはかなしみながら止めなかった。逃げようとするハルをロゼが押さえる。  次々と口づけが瞼に降り、いつの間にか群れは消え去り、残っているのは六つの魂。  涙が勝手に零れていく。貰った記憶は様々なのにどれもがハルの事を思って選ばれた物だった。  体の使い方、大地の駆け方、木葉を揺らさずに木に登る方法、冬眠の方法、<神眼>の使い方と、経験と、慰めの心。 「おばさん、ハルをかして」  テレフの言葉にロゼは少し考えた後、押さえつけていた前足をどけた。  泣いている顔をじっくり見ながら「不細工!」と酷いことを言うテレフは少し寂しそうだった。 「おれ、神様が獣を創り変える前に死んだんだ。その後ディラーラが結界を創ってくれたって知って嬉しかった。死んだとき、悪魔に潰されて苦しかったから」  あんなふうに、もう誰も死なないんだって思った。そう言って続ける。 「でも、今度は短命種が皆を苦しめだしたんだ。おれは何も出来ないから辛かった。ごめんな、死んじゃって。お前が不細工になるの、おれのせいだもんな」 「どうして?」 「結界が無ければ短命種はすぐに死んでたかもしれないって思ったんだ」 「獣も危なかった。悪魔は沢山いたんでしょう?」 「でもお前はそんなふうに泣かなかったのかなって思ったんだ」  ちょいちょいと前足で目元を擦ってくる。力が強くて毛皮が横に伸びた。 「ごめんな。でも、おれには皆みたいな記憶が無いから、一番びっくりした時のをやるよ。だからもう泣くな」 「いらないっ!」  困ったようにロゼとアシミと周囲を見回して、それでもテレフは目元に口付けた。  丘の上に日の光が差したとき、偶然目を開けた。  そうして見た景色の先に神木が連なっている。  大樹は風に葉を揺らし、一瞬煌めいた。太陽の光を反射して葉が黄金に瞬く。まるで秋の紅葉のように、しかし冬の小川が煌めいて白くなるように、春の芽吹き始めの新芽の色を混じらせながら、夏の鋭い光も伴って。  美しいとは、この場面を言うのだとハルは知った。 「どうして、どうして……」  目を開ければテレフはもういない。  皆勝手なことを言い、勝手なことをしていなくなる。 「神がぼくらを創り直したとき、ほんの少しの未来が見えた。それは神のいたずらか、創り直した事によって生じた何かかはわからない。ぼくは種の未来を見た。様々な枝葉の先にある辛い現実だ。避けようとしたが無理だった。運命は決められているのかと思ったことがあるが……違う。ぼくが選び取った。そういう方向に流れてしまっただけだった」  レイディミラーは静かにアシミを見つめ、問う。 「見た?」  アシミはただ微笑むだけだ。  嘆息しながら、別の質問をする。 「私の洞にある短命種が作った道具……鉄剣。あれに神術をかけたな」 「そうさ。ぼくの尾に神力を使って、君の洞に居る獣の魂を引き出すように術をかけたんだ。日付を設定してね」 「馬鹿な事を!」 「そうかな? あの鉄剣はこの子を何度も守ったし、この時だって価値あることだ」 「どうして私に言わなかった……。それに留まっているならなぜ! なぜ会いに来なかった、知らせてはくれなかったんだ」 「君が知ってどうにか出来たのか? 聡明なレイディミラー。とても酷いことを言うが、何も出来なかったはずだ」  まったくその通りだったので、彼女は唇を噛みしめた。 「死んだぼくらしかハルを納得させてやれない。与えられなかった。君が彼女を授かってロゼの腹に入れる瞬間を遠くで見つめながら、誰も姿を現さなかったのはそのためだ。機会はきっと一度きり。神は今回大目に見てぼくらに留まる時間をくれたが二度は無い」  永久にない、と続ける。 「ハル、ぼくは六番目の<神眼>を開花させた。まぁ、それしか使えなかったんだが……」 「やだ……いらない」 「そんな事を言いうな。きっと一番大切なときに必要になる。君にはきちんと迎えに来てくれた者がいた。さて、神はどうするだろう。心配なのがもう一人いるけど、きっとあの子は誰が何を言っても聞かないし、自然と選ぶだろう。後悔するかもしれないし、けど、そうなったってやるんだろうな」  アシミの手はとても大きく、持ち上げられればハルは小物の人形のようだ。  彼はよしよしと膝の上に乗せて背中を撫でてやりながら、それまで黙って話を聞いていたカリオンを見つめる。 「さて、後の事はよろしく頼むよ。まぁ本当に頼んだかいがあるかは別としてね――お別れだ」  泣き濡れた目にそっと触れる。 「ハル。神は奇跡を起こさない。起こすのはいつだって、生ある誰かだ。忘れるな、奇跡はだ」