手を放し

「――やめてっ!!」  悲鳴を上げながらハルはうずくまった。  世界が激しく振動している。ハルを中心に波のように溢れ出た蒼が円を描いて広がっていく。 「ハル」  優しく呼ばれても恐ろしくて顔を上げられない。 「ハル、立って」  優しい声音が辛かった。惨めな自分が強調されるようで。  蒼く塗りつぶされた場所は振り出しの場所。始まりの場所でもある。  細かく入った亀裂の一つ一つを眺めたカリオンは前足をその一つに当てた。 「ここはどこだ?」 「どうしてカリオンがここにいるの」 「わたしの心を言い当てたから。……そうとしか考えられないわ」  ぎょっとして振り返ったカリオンは、そこに二つの影を見た。人間と獣の彼女。過去と現在だ。  獣は彼女の膝に飛び乗ってまるまってしまう。  彼女は答える。 「ここはわたしの心の中。罅は、傷跡」 「どうして突然ここへ? ……君の姿は、前世のハル?」 「黒くてよく見えないでしょう? 近くへ寄っても同じよ、もうほとんど思い出せない」  自分がどういう顔をしていたのか、親しい人も含めて全て記憶は遠くなるばかり。 「突然ここへ来たのはなぜだ?」 「あのままだと醜態をさらすのが分かったから。わたしは誰かに泣いてるところを見られるのが死ぬほど嫌いなのよ」 「……素直だな」 「ここでは思ったことが全て伝わる。だってわたしの心だもの。……だからあなたには出て行ってほしいの、今すぐに」  傷とは別の穴が空いて、蒼い世界に光がこぼれた。彼女の言った通り、前世のハルの顔は見えなかった。  近づいたカリオンは鼻先を寄せてみたが、不意に視線を戻した。 「思ってることが全部俺に知られてしまうから嫌って事か」 「出て行って」 「大きな傷と、小さな傷がたくさん。これはどうやってできた? ハルは自分に傷がついた理由を見つけたのか。俺が言ったことは……少なくとも図星だったようだけど」 「帰ってよ! どこかに行って!」  獣は丸まったまま叫ぶからカリオンは一っ飛びで近づくと強引に顔を上げさせた。泣き濡れた瞳が暴挙に見開かれる。 「泣き顔なら散々見たから、今更隠さなくても大丈夫だぞ?」  飛んできた回し蹴りを避けずにそのまま口に銜えたカリオンは、ぷらりと垂れ下がったハルを降ろすと顔を舐めた。ぐしゃぐしゃになっていた場所が更にぐしゃぐしゃになっていく。 「あなたのそういうデリカシーのないところが凄く嫌い!」 「……い、いつもの言い方が戻ってきたな」  心に深い傷を負いながらカリオンは続きを話す。 「ハル、傷は治りそうか? そうなら大人しく引っ込む。ここはさっきの場所と繋がってるんだろう?」 「たぶんね。傷は……そもそも死んだときにできる傷は忘れることによって癒される。わたしはけして忘れない。だから、傷は消えないわ」 「なら、細かい傷は? どうして前世の傷で弱って眠ることになる」 「傷付いたままの魂は精神の器として機能しにくくなるんじゃないかしら……ていうのはきっと言い訳ね。わたしが異物で些細なことで傷つきやすいからよ。感傷、後悔、無念、不安に……あなたの言った通り自信が無かった」  獣のハルが言えば、人のハルが続く。 「そもそも異質なのよ。転生はあり得るけれど、記憶を持ったままは有り得ない。普通ならね? だからどこかに無理が出ているんじゃないかしら」  ふと、カリオンは疑問に思う。ハルの心の中だというのに、どうして二人もいるのか。  彼女たちは答える。 「現世と今世のわたしが混じれずにいる証拠じゃない?」 「混じれないって?」 「意識」 「知識」 「価値観」 「些細なことだけど、たくさんの事で分別しなければいけなかった。わたしは賢者になれなかった、しかたないわ」 「悟りもね……。疑問を持ってるでしょう?」  ああ、とカリオンは頷いた。 「いいわ、ここまで来たんだもの話してしまいましょうか」 「気が進まないけど……わたしの前世、地球と現世エディヴァルは価値観があまりにも違う。地球のわたしが住む場所は平和だったし、生きている上でエディヴァルのように戦うことはなかった」 「つまり?」 「前世のわたしは人殺しを許せない。それは倫理に悖る大罪よ。法律にもそう定められていたわ」 「現世のわたしは他人を殺す。戦えなければ死ぬしかないわ。狩りは生きるために必要な事で、躊躇するようなことじゃない。当たり前のことなの」  そう思わなければならなかった。  ほら、もう違う。と彼女たちは声をそろえる。 「倫理観は平行線。壊れないためには分別した方がいい。悩んだら死ぬ、迷ったら死ぬ、判断できなければ守れない。なら、もう答えはわかるでしょう?」 「つまり、死んだときにできる傷は……」 「そう、わたし」  彼女は胸に手を当てた。自嘲しているのだろうか。顔は暗くわからないままだ。 「傷が形をとって、言葉を話す……?」 「その通り。わたしも始め驚いたわ。……だから質問の答えはいつでも一緒。傷はけして治らない」 「それじゃ、死にたいと思ったことはどうなんだ」 「死にたい?」 「そんなこと考えたことないわ」  嘘だ、とカリオンは続ける。 「諦めたじゃないか」 「……あきらめじゃない。覚悟よ」 「どっちでも一緒じゃないか。けっきょくハルは生きることに執着してない。傷が治らないこと、眠ってしまった理由はそれほどまでに君を傷つけた? 自信が無いのはそれほどまで心を傷つけることだったのか?」  核心を突いて言われれば、心は勝手に答えてしまう。 「わからない」 「ただ自信が無いだけ? なら、何に対して?」 「生きること? そんなものに自信を持つ者なんているのかしら」 「違うだろう。神木と……いいや、他の全ての命と生きる自信が無いんだ。ハルが見限ってほしいと言ったとき、モリトは違うと言った。彷徨うだけだと……どこに行っていいかわからずに、居場所を見つけられずにいる。それが、自信が無いって事だろう? 皆の所に帰っていいんだって、君のいていい場所かわからないんだ」 「嘘よ!」 「嘘じゃない」  認めたくない心と肯定する心が対立する。いいや、対立ですらない。認めたくなくてだだをこねているだけだ。 「どうして?」 「誰だって好きな相手に嫌いって言われたら辛い」 「止めてよ言わないで! 聞かないで!」  おや、と目を丸くしたカリオンは微笑んだ。 「ずっとモリトはハルが好きって言ってたし、さっきだってそうだった。前世の記憶を持った、今のハルが好きだよって言ってたじゃないか。俺もそうだよ。どちらにもなれずに辛いなら、どちらにも立たなくていい。ハルを大事にしてくれる人の所にいればいいんだ」  それにな、と続ける。 「考えるのはいつだってできるし、それで辛くなるなら止めてしまえ。ろくなもんじゃないから。それで気が晴れるように歌を歌おう。遊ぶのでも、駆け回るのでもいい。悩んで体を壊すことこそ、君も含めて皆が望まない。思い詰めてしまう前に吐き出してしまえ」 「でも……」 「きっと大丈夫だ」  自信を持って、カリオンは言う。 「神木は世界の終わりまで生き続けるという。なら、今の君の悩みを聞いたって木の葉が揺れる音を聞くようなものだろう。信じればいい、神木も皆もハルがどんなに泣いて悩んでも包んでくれるほど大きいから」 「……カリオンはわたしよりよく知ってるのね」 「これでもゼーの子孫だからな。悔しかったら俺よりずっと長く神木と共にあればいい」  行こう、とカリオンは促した。獣は少し悩んで歩き出す。一度だけ振り返ると、細かな傷はうっすらとしていた。そして彼女は手を振って、二匹は外へと戻っていった。 「悩むのは死んだ後でも大丈夫だ。こんな場所があるんだから、振り返るには十分だろう?」 「……確かに、わたしに自信は無かったけど、今もないけど」  認めるのはとても辛かった。できると思えなくて、迷っていた自分は弱い。 「モリトの約束のことを聞いたとき、不安になったの。わたしは短命種から守れるのかなって。できないと思ったわ。それに、たった一匹で神木達を守れるの? 悪魔を狩れるわ。でも、それだけなの。……それにモリトは守ってほしいって考えて無いのは薄々わかっていたの」 「誰だって女の子に守られるよりは守ってあげたいと思うものだぞ」 「そう言う物なの? じゃあどうしたらいいの?」 「いざというときは背中に守られてればいい。男はそれだけで立派に戦えるんだ。――帰ろう、群へ。場所はわかるか?」  全ての魂が帰る道筋を見て、ハルは小さく頷いた。 「……あっち」  乳白色の世界に散らばる極彩色の入り口達の一つに入る。  その後ろで、穴が完全に消えるのを待っていた彼女は薄暗い世界を見つめた。足下に水たまりのように零れた涙が薄く広がり、世界はほんの少しだけ、色を薄めた。  くにゃりと体の形が変化して、彼女は細く伸びてぐちゃぐちゃに混ざり、金色へ変化した。それは空間の真ん中に鎮座している。天をつくほど巨大な傷跡だ。傷口はキラキラと煌めきながら裂け目として残った。