それでも

 足の裏が揺れた感触に、すぐ感づいたのは役に立たない前世の経験からだった。 「なんだ!?」 「すぐに外へ出て!!」  ハルは素早く来た道を戻ると両手を床につくモリトを抱え上げる。驚愕する面々を捨て去り窓の外へ飛び降りた。悲鳴が後を追うが、じん、と痺れる足を耐えながらモリトを落とさないようにするだけで精一杯だ。 「ダグラス! 早く来て!」 「ここが何階だと思ってるんですか! 無茶言わないでください!」 「たった数十メートルじゃない!」 「えええ」  窓から乗り出した黒猫はぎょっとして後ずさった。  揺れは止まず、断続的に続いている。それどころか大きくなっているようだ。 「二人とも後ろを見てください!!」  林の中からゆっくりと何かがやってくる。  ゆらゆらと危なく歩いているのは青白い顔をした人だった。白い眼球は黄色く変色し、瞳孔が開ききった目は焦点が無く濁っている。内側から黒ずんだ色を浮かび上がらせた肌は今にも溶け落ちてしまいそうだった。 「……。モリト、絶対前に出ないで」  そげ落ちるように無くなった唇から覗く口腔は全て黒く腐っている。致命傷は胸つけられた大きな傷跡だろう。そして己を殺した剣を持って向かってくる様は異様だった。剣は血で錆び、肉片がこびり付いたままである。  戦うのは初めてだ。  男の死体リビングデッドに続くように、後ろからぞろぞろ女達が現れる。もう、腐乱死体のパレードだ。彼女達の汚れきった服はずいぶんと薄く、装飾の切れ端が垂れている。似たような衣服を見ると、裏路地の向こう――風呂屋の女達だろうか。  公衆浴場で出会った女の勧誘を思い出したハルは、調達先に感づいた。  酷い匂いだった。 「ハル、どうするの?」  原因は分からないが揺れはまだ続き、足の裏から伝わる振動は十分危機感を抱かせるものだった。城といえど、倒壊するかもしれない。しかし逃げるには現れたリビングデッドを倒し、近くにいるはずの死霊術士を探さなければ。  死体は意志を持って歩かない。  もし死者が歩くのならば、近くには死霊術士がいる。そしてそれは、必ず悪魔なのだ。死体を操る術はエディヴァルにはなく、悪魔が使う術なのだ。  操られた死体はリビングデッドと呼ぶ。リビングデッドはその名の通り死体だ。  思考はなく、虚ろで術者の意のままに操られる死体。通常の人間の何倍もの筋力を持ち、傷付けたくらいでは動きを止めない。頭か体のどこかに刻まれている死霊術士の紋章を破壊し、魔力の供給を絶つしか倒す手立てがないのだ。  厄介なことに、彼らのおぞましい死に顔が人の心を挫く。  遠く聞こえる悲鳴は耳に痛く、いつまでも止まない。  この様子では相当数のリビングデッドが徘徊を始めたのだろう。  引き抜いた鉄剣は太陽の光を反射し白く輝いた。 「一体どこから?」 「地下水路かも」  独り言に返答したモリトは指さした。林の中の土が盛り上がり、そこから四体目のリビングデッドが出現する。泥水と共に這い出す様は、まるで地獄から生者を引きずり込みに来た悪夢のようだ。 「地下水路なんてあったの?」 「うん、カリオンはそこに悪魔がいるんじゃないかって。潜って探してたから当りみたいだね。でも、この揺れは何だろう……」  カリオンと言う単語にお腹の奥がヒュンとなるが、考える前に、水路から勢いよく黒い水が漏れ出した。 「そうか、どこかが決壊したんだわ! ここは危険だから――」  思い浮かべるのは周囲の地形。  パイロン王国は平地だが、近くに川があっただろうか。それもこんな、大量に水が湧いて出るほどの。地下水路がどれくらいの規模かは知らないが、水路と言うくらいだ、小さいはずがない。  見やれば水の勢いは徐々に増している。近づいてきたリビングデッドの首を無造作に撥ね飛ばし、ハルは周囲を見回した。どこへ逃げれば安全か、見当も付かない。水がどこから来たのか分からないからだ。  と―― 「モリト、下がって」  林の影から現れたのは、それまで見えなかったのが不思議なくらい大きな男だった。痩身で二メートル近い身長。顔の半分を隠すような仮面を被り、短髪は薄い銀色だった。若い。青年とも言える年代だが、目に生気が無い。これもリビングデッドだろうか。しかし他の死者に比べ明らかに様子が違っていた。  分厚い戦闘服は黒一色。所々に赤いラインが引かれ宝石のように光を反射している。魔術が施された衣類だった。袖は長く隙間を覆うようにされた手袋も黒く、指輪が一つはめられ、ひざ丈のブーツも頑丈そうだ。 「こーんにちは」  それは、すれ違った旅人が愛想良く話しかけるように片手を上げた。衣擦れの音を一切させず。ただ、腰に下げた不釣り合いなほど大きな太刀が金具の音を立てる。 「あなた、誰」 「だれでしょー。わかりませーん。女の子、探しています、探しているよ。耳がそっくりな、おーんなのこ」 「……。モリト逃げて。できるだけ遠くに、誰にも見つからないように」  後ろ手に押しやれば困惑した気配。  当たり前だと思った。一度だってこんなふうにハルは逃げろと言ったことは無い。  背中に冷や汗が伝ったわけは簡単だ。  男がするりと自身の耳を撫でた。側面に着いたふさふさとした耳は尖り、まるでハルの髪にかくれたそれと、そっくりだった。  瞳は虚ろだ。  生きているとは思えない青ざめた肌の男はゆっくりと、本当に優しく微笑んだ。 「みーつけた」  初撃を避けられたのは、ただの幸運だ。  鉄剣の腹で受けた太刀は重い。渾身の力で押さえ込んだにもかかわらず、足は地面を滑り、男は片手で太刀を振ったまま「おや?」と首をかしげた。 「うーん」  と間の抜けた声を上げた刹那、足が地面から離れ気付けば壁に打ち当たっている。受け身を獲る暇も無く背中から埋まったハルは、胃の中の物を全部吐き出した。気付けば下腹部に手の平を当てた男が顔をのぞき込んでくる。ただ触れているようなのに万力のように動かず、痛い。 「ちいさいねー」 「あ゛、ぐぁ……」  どうしてだろう、と何かを考えるように瓦礫からハルを取り出した男はそのまま右腕を握った。みしり、と嫌な音を立てた骨が砕けるのと、ハルが左足で顔面を蹴り上げるのはほぼ同時だった。  男の頭が呼ばれて振り返るような自然な動作で動かされ、蹴りの勢いは殆ど相殺された。それに比べ自分はどうか。  耳の奥で悲鳴が木霊する。  無造作に落とされ体中に痛みが走った。擬態が解け無様に転がる様はただの得物。遠くでモリトがハルを読んでいる。駆け寄ろうとするのが薄目にもわかってうなり声を上げる。気圧されたように二の足を踏んだ。 「うーん? ちいさいねー?」  息をするだけで内臓に酷い痛みが走る。擬態が解けた状態で鉄剣を握ることなどできない。  圧倒的な暴力の前で、役立たずなハルはもう噛みつく力も無かった。 「うーん、二本脚の女の子じゃーないねー?」  困ったように服からハルを取り出して、男は首をかしげた。座り込み、膝の上にハルを乗せるとゆっくり背中をなで始める。 「間違えちゃったー? ごめんねー。痛い、痛いねー」  よしよし、と優しく背中をなでる。  男は死人だ。ただし死霊術士の生み出した少し特殊な物らしい。術を知らないものの、意識を持つリビングデッドは聞いたことがない。  ごめんね、と繰り返して背中をなでる手が優しいと感じる。ファズがハルを寝かしつけるときによくした動作にそっくりだった。  この考えは、狂っていると思う。  それでもハルは、聞いた。 「あなた、誰」 「だれでしょー。わかりませーん。女の子、探しています、探しているよ。耳がそっくりな、おーんなのこ」 「あなたはテール?」 「てーる? てーる、てーるだよ。そー言われるの、久しぶりー」 「あぁ」  涙が零れた。  この思いは憐憫だろうか。怒りも憎しみもなく、ただ悲しい。 「特別な死体。特別な種。そうならない方がおかしいのよね……」 「なにー? どうしたのー」 「あなたのご主人様は何て名前なの」 「うーん、忘れてる? 忘れちゃったー」 「そう」  瞼を閉じる。世界は暗闇に支配される。眼球の奥で熱が動くのが分かった。  ハルは両目を開ける。 「誰でも良いわ。あなたをちゃんと殺してあげる」  赤い光が虹彩を塗りつぶし、ハルは男に食いついた。  喉に牙が触れた瞬間、男の腕が脇腹に食い込むのが分かった。引きちぎれるような痛みの中で牙が滑らかに皮膚を裂いていく。残念なことに首の表面を少し深くえぐっただけで、動きが止まることは無かった。追撃に胴体を握られる。大きな手だ。  身をひねりその手から逃れた。指先が毛皮を切り裂き、自分が紙のように薄くて柔らかくなったと錯覚してしまいそうになる。 「どうしてー」  首をかしげる男に、無様に転がりながらハルは答える。 「たとえどんな事情だろうが状況だろうが、わたしより後に、獣が死んじゃだめなのよ」  <神眼>は付与魔術に似ている。身体能力を一時的に上げたり、威嚇の効果を持つ。他にもあるが、ハルにはまだ使えない。  ファズは体内の神力を変換させる作用を持つのが<神眼>ではないかと言った。神力を持つのは神木と獣だけ。神が創り出した生き物には神様の力が宿る、と考えれば自然なことだ。  問題は、いかに神が創り出したと言えど使う者が神ではないと言うこと。  だから体内の神力が狂い、失明した者が出たのだろう。  体が整うまで絶対に使うなとファズは言った。だが、その言を守って死ぬのはばからしい。  勝算はない。ただ馬鹿みたいに突っ込んでいくしかないのだ。  諦めにも似た覚悟を抱いたとき、草を踏み分ける音を聞いた。視線はそらせない。なのにハルは呼びかけに振り返ってしまった。 「ハル、かがめ!」  反射的に頭を下げる。  頭上を飛び越えた何かは紫に輝く何かを男に向かって振り下ろしていた。硬質な音が響く。  信じられない思いで座り込んだハルの体を誰かが持ち上げた。