蔑ろにしただろう
カリオン・ゼーローゼは先祖返りだ。 妖精族の特徴と、もう一種の特徴が色濃く出てしまった彼は、ゼーローゼでありながら異端だった。 他のゼーローゼが神木の世話にしか興味を抱かない中、弓も剣も貧欲に鍛え、暇があれば二つ目の姿を取った。 二つ目の姿は大きな虎のような、狼のような生き物で尖った耳に銀の毛並みを持っている。もう一種の獣だろうと村長は言った。その表情が強ばっているのを子供心に不安に思った。 そんな二つ目の姿で狩りをすれば、獲物を逃がした事はない。そんな彼をゼーローゼ達は褒め称えた。 村は平和で貧しくなく、日々の糧には困らない。外敵はいない。ときどき外から来る者達が村の様子を聞きに来て必要な物を置いていったり、毛皮と食品を交換していった。 彼らは庭師らしく、森の向こうに見える城に住んでるという。 好奇心を覚えたカリオンは村長に聞き、初めて彼が激高したのを見た。倉に閉じ込められ、三日出して貰えなかった。 カリオンはなぜ、逆鱗に触れてしまったのか考える。 外、と言う場所をことのほか嫌っているのは知っていた。だが交流がある。 停滞した平和の空気を纏う村を、初めておかしいと思った。 倉から出たカリオンを村の人間が少し不安そうに見て、その中の一人が外に行きたいのかと聞いた。 よくわからないと言うと、ホッとした顔をしたのが印象的だった。その中の一人がぽろっと「よかった、壁の外に行くのかと思った」と言った言葉にはっとした。 真っ先に思ったのは森の端まで駆ける事だった。遠くに見える巨大な壁の端までたどり着くには何日かかるかわからない。まだ子供だったカリオンが村から離れる理由はないが、どうしたことか、気になって仕方がない。 体を鍛え、道を探し、カリオンの生活は壁までたどり着く事を目的に組み立てられていった。そしてこのことは秘密にしようと考えた。 「壁の外は見ちゃいけない。そうしたらここにいられなくなるわ」 母はそう言った。 余計に気になった。 一日一日が、カリオンにとって長い鍛錬の時間となった。体が大きくなるにつれ、任される仕事の難易度も上がった。みっちりと木の世話を覚え込まされ、花の手入れを知り、食事の調達をする。 年頃になると男女の仕事は明確に別れ、間違いが起こらないように引きはがされた。その間違いが何かは分からなかったが何となく触れてはいけない気がした。 しかし平和で娯楽のない村だ。建前はあっても中身は違う。手紙や秘密の逢瀬はそこかしこで行われ、ゴシップのような噂が飛び交った。 それらを遠い眼差しで見つめていたカリオンも、手紙を何度か貰ったが何一つ返事を書かなかった。手紙を返す暇が無かった。 いや、言い訳だ。カリオンは何に対しても興味を持てずにいた。 男の友がいなかったわけじゃない。彼らは輪の外に居がちなカリオンを引っ張ったし、いい奴らばかりだった。女達の中に、美しい娘が居なかったわけじゃない。綺麗だな、と思うこともあった。 しかし、彼らと共に居続けることを、考えられなかった。 その思いが顕著に現れたのは成人式の時だ。成人を迎えた若者は集まって、祭りが開かれる。カリオンは沢山の娘と踊って言葉を交わし――伴侶を定められなかった。 村の女達は見目のいい、力の強い先祖返りの嫁を望んだが、カリオンの体は誰にも反応しない。自分が不能であるとは信じたくないが、そうである事を考えた。 父は「お前の成長は遅いだけだ」と言った。先祖返りにはたまにあるらしい。確かにカリオンは、同年代と比べて全体的に幼く見えた。 そのためか、母はカリオンの心を気遣った。ゆっくりでいいのだと。 興味が持てないのだとカリオンはつぶやいた。 とうとう壁の外が気になるのだと告げれば両親は悲しんだ。 「ここにいろ、外は辛い事ばかりがある」 「ダメよ、行かないで。行ってはいけないの」 その辛い事も行ってはいけない理由も両親は話さなかった。 突然村が、森が一畳の部屋のように窮屈に感じ、カリオンは夜の森を駆け回った。 二つ目の姿は驚くほど早く森を突き抜けた。 二日目の朝に壁際までたどり着き、とうとうやってしまった、と落ち込んだ。帰れば村長は激怒するだろうか。今度は何日倉に放り込まれるのだろう。 しかしそんな考えは、殴り書きされる文字の羅列に衝撃を受け消え去った。 ――神歴8560年 夏 イビリアの丘にて進軍。これを撃退するも致命傷を負う者が多発。 ――神歴8560年 初冬 短命種の迎撃止まず。神木に問題なし。 数千、いや何万年以上の歴史が書き写されている。沢山の違う筆跡が、訴えかけるように壁を掘り尽くし、それは一日では読み切れない量だった。 五百年前からの、否、石が築かれた後に何者かが遡れるだけ遡って記した歴史の記録。 カリオンは取り憑かれたように読みあさった。そうしなければならないと思った。始まりから最後まで読み進めるのには膨大な量で、夜は明かりが必要になる。日の出と共に読み、沈むと狩りに行き、腹を満たして眠った。 書き記した者達は十や二十では効かないだろう。そして今から五百年前の記録にたどり着き、村長が外を嫌い、自分と少しの村人にしか交流させない理由を知った。父と母が外は恐ろしい場所と言い聞かせた親心がわかった。 戦でフロースが惨殺され、土地を奪われ閉じ込められ、高い壁が築かれてからずっと、少しずつ書き記されてきたフロースの歴史書。そして自分はその末裔である。 カリオンは、自分のルーツを知った。 記録は更にさかのぼり、三百年前に途切れている。 カリオンは無言で転がっている石を拾い上げ、続きを書き始めた。自分が知るだけの過去の逸話を。 三百年前、フロースの生き残り達が新しく水を引いた事。 二百年前、新しく鶏を飼う事になった事。 百年前、村が落ち着き日々の糧に困らなくなった事。 五十年前、両親が生まれた事。 十四年前、自分が生まれた事。先祖返りだった事。 カリオンは思いの丈と共にこれまでの事を書いた。過去、壁にたどり着いた者達がしたように。 書ききったとき、一月は経っていた。探しに来る者はおらず、カリオンもまた、帰る意志を見失っていた。 世界は驚くほど狭かった。一畳の部屋と感じたのは間違いない。 疎んではいない、故郷を愛している。だが、足りない。決定的な何かが足りなかった。 理由がわかった。 祖先は、自分は渡り鳥と同じだったのだ。 出口を探し、カリオンは壁伝いに歩き出した。 好奇心の赴くまま「出てはいけない」と言われた森から外に出た彼は、練兵場に迷い込む。林に囲まれた開けた場所に、同じ服を着た人間達が打ち合いをしている。 最初戦でもしているのかと勘違いしたのは今では笑い話で、笑えない話だ。 当然王国騎士に見つかり好奇心を出した彼らの一人、現在の遊撃部隊長がどうしてここに来たのかと聞いた。 外に出るためだと言えば、両親の事を聞かれる。当然村の事を答え、帰る気が無いと告げれば困惑が投げ返される。 当然だろう。 パイロン王国にとってゼーローゼと、その一族が管理する森は犯してはならない領域なのだ。その子供が転がり込み、出ていくと言っている。 村に送り返すのが当然と言えたが、騎士はそうしなかった。 刃先が潰された練習用の物だが、当たり所が悪ければ死ぬだろう。 それを渡し、言った。 「小僧、俺に一太刀入れたら、どこだって行けるぞ」 彼にしてみれば、現実の厳しさを教えるつもりだったのだ。 けれどカリオンは一太刀どころか騎士を叩き潰した。狩る事しか知らなかった少年は手加減と言う事を知らない。 畏怖を向けられ取り押さえられる直前、叩き潰した騎士が言った。 「合格だ。後は、守れるようになればいい」 「守る?」 ぼろぼろの顔面で、どろどろに汚れた服のまま言い放った男の目が、ぎらぎらとした獣のようになり、頷いた。 未知の言葉に戸惑うカリオンの頭を乱暴に撫でた手は大きい。 「国を守り、民を守る。お前は今日から騎士になれ」 そうして訳の分からぬまま、カリオンは地獄に落ちた。 外の世界は村のように優しくなく、穏やかな大地の匂いはしなかった。 血反吐の香り、断末魔の悲鳴。命乞い。切り倒す悪魔の血から薫る芳醇な香り。誘惑の一口を舐めたとき、広がった味わいに微笑んだ姿を見た同僚が「悪魔」とつぶやいた。 力は羨望と共に恐怖を集め、カリオンは強すぎれば一人きりになる事を知った。 北に悪魔が出たと知れば狩りに行き、南に賊が出たと知れば殺しに行き。カリオンは誰かを殺さない日などない、と言うように毎日殺しに明け暮れた。 ――守るとはなんだ。 王国騎士が食べるためではなく、殺戮のために殺す人間達の集まりだと言えば、かろうじて言葉を交わす者達は困惑を返した。修羅のような戦いに感謝の言葉は立ち消えになるのだ。彼がそう思うのも必然と言えた。 空しく、無意味で、無価値な戦いに心は凍り付き始めた。 食う事のない狩りは殺人で、それに飽き飽きした頃、非合法の人買い市場を潰す事件に関わった。 持て余されたカリオンは、その頃遊撃部隊に移動していた。鋼鉄騎士と揶揄されて、単騎で事件に関わる事が多くなっていく。 その時も本体とは別行動をしていたカリオンは、不思議な少女と出会った。 全身に殺意を纏うものの、どことなく途方にくれている。後をつけたのは無意識に近かったが、少女が誰も居ない道端で暴漢に襲われたのを見て自分を褒めた。 助けた瞬間、繰り出された右ストレートが顔面に食い込んだが。 「邪魔しないで! 捕まらなきゃいけないの!」 「どうして?」 「連れが攫われたのよ」 どうやら地団駄踏んだ彼女の連れていた少年が、目を離した隙にどこかへ攫われたらしい。わざと捕まろうとしている最中だったそうだ。 市は明日に迫っていた。 カリオンは少女に自分が助け出す事を約束したが、半眼で睨まれる。 「知らない人の言葉は信用しないわ」 名乗り、身分も明かしたが頑固に信用しないどころか、犬を払うように手を振られカリオンはショックを覚えた。恐れられ、遠巻きに見られる事は多かったが、こんなふうに邪険にされた事はない。知名度に胡坐をかくわけではないが、元々傷ついていた自尊心が崩壊の危機を迎えた。 しゅんとしたのがわかったのか、少女はちらちらカリオンと奥の道を見比べていたが、やがて彼を置いて行ってしまう。 「ついてこないで」 「一人じゃ危ないんだ。頼むから大通りに戻るんだ」 なだめすかしていると、不意に村に居た頃を思い出した。出る前はカリオンにも弟分と呼べる者達が居て、狩りの仕方や木の世話などわかる範囲で教えていた時期がある。 彼らは自由で、素直で、時に残酷な物言いをした。まるで、この少女のように。 そう思うと放っておけなくなった。 子供が路地裏に入って帰らない事など当たり前の世の中だ。見て見ぬふりをした事もあるというのに。 「わかった、俺も一緒に行く。連れの子を見つけたら助けて、君は安全なところに行く。いいね?」 「……別に、手伝ってくれなくてもいいけど」 そこまで言うならまぁ、いいけど。ともごもご言った手を取って歩き出す。戸惑った手が嫌そうに振られたが「大人しくしていなさい」と言えば不本意そうに握り返してくる。 「どこへ行くのかしら?」 「人身売買の開場へは三つのルートが確認されている。連れはどんな子で、名前は?」 「モリト。十歳で緑色の髪と目をしてるの。目を離した隙に勝手に宿を出て攫われちゃったみたい……」 「次はどこへ行くにも手を繋いでいるといい。最近子供を攫ってるのは、二つ目だな。アジトはこの近く」 見下ろして小さいな、と思った。 カリオンの胸の辺りにようやく頭が届くかという年齢の少女だ。十歳を超えてはいるだろうが、成人前に違いない。 「モリトはそこに居る可能性が高い?」 「子供はな」 結果的に、モリトはそこに居た。大量の子供達も一緒で、近くに張り付いていた王国騎士に事情を話せば、容姿が近い子供がつい最近、攫われてきたという。 少女は大人しく話を聞いて、人攫い共が事を開始したとき鬼のように襲いかかった。 あ、と思う間もなく全てを叩きのめし辺りを血に染める。 子供達は恐怖で失神し、王国騎士は慌てて保護に乗り出した。カリオンですら止める事ができない神速の技だった。 血濡れの道で連れを見つけた少女は少年に駆け寄った。一発頭を叩き、シャツをめくり、靴下を脱がせて足の裏まで確かめた後、怪我がないことにほっとして、ほんの少しだけ笑った。 二人はそのまま手を繋いでカリオンの足下まで来ると「ハルを連れてきてくれてありがとう!」と少年特有の高い声が言った。ニコニコとしながらカリオンを見上げる眼差しに、心がほんのりと温かくなる。 そして、口を尖らせながら少女が「ありがとう」ぽつりと言われた言葉にカリオンは自然と笑った。 嘘偽り無い感謝の言葉が、そのまま伝わったからだ。 「二人はどこから来たんだ?」 「国外から!」 「ここじゃない場所」 「……そうか。これからどこへ行くんだ?」 捕り物が終わるまで保護することになり、 「決めてないよ!」 「その辺をふらふらする予定なの」 「……………」 カリオンは考え直し、そのまま二人を家に連れて帰った。あまりに危なっかしく思えたから。 一人で住むには少しだけ広い家は、カリオンが騎士に入団するときに与えられたものだ。最初は借家。今は買い取って使っているが、おそらくゼーローゼの微妙な立場を考えた厄介払いなのだろう。普通の騎士は城内の寄宿舎に寝泊まりするのだから。 モリトは泊まることに賛成し、少女――ハルは渋った。それも夕食を作ってやれば収まったが。 二人は不思議な旅人だった。 日中はどこかへ出かけては買い食いし、カリオンが帰ってくる前に家に居る。暇になると片付けや掃除をして家の中を走り回り、また汚した。 少しずつカリオンの帰宅が早くなり、凍り付いた表情が溶け出した。微笑む回数も増え、雰囲気が丸くなる。 特に夜、部屋にある本を読み聞かせているハルを見ると微笑ましくなったし、カリオンがいるのに気付けば、モリトが両手を挙げてよじ登ってくる。いたく耳が気に入っているようで何度も何度も触ってくる。 同僚から話しかけられる回数が増えた。不抜けたと言われたし、良い表情になったとも言われた。 カリオンは考える。 この安寧は村に置いてきた物ではないか。では、勝手にいなくなったとき、父と母はどうしただろうか。一人息子を心配しただろうか。しないわけが無い。 帰らなければならないと、唐突に思った。しかし、帰れないとも思った。カリオンは外の広さを知ったし、村にはずっと居られないだろう。情けないが村長も怖かった。 そうこうする間にパイロン王国の中はあらかた回り尽くしてしまった。真新しいことはあるが、新しい土地に対しての興味の方が強くなる。 それはモリトの話だったり、ハルから聞くこれまで渡ってきた旅の話を聞いたせいかもしれない。 そしてこの可愛い子供達と一緒に行けたら、どんなに素晴らしいだろう。その思いつきはとても良い物に思え、カリオンの心を捉えた。 この時のカリオンは、まだ自分の気持ちに気付いてはいなかったが遠からず騎士を止めたいと上官に言った。もちろん鼓膜が破れるかと思うほど怒鳴られ、許されなかった。 カリオンは誰にも剣を捧げていないし、人当たりも良くなった。やっと普通の――いいや、彼らは強い兵を逃がしたくなかったのだ。パイロン王国は結界が弱く悪魔が多い。 話が広まると、カリオンを説得しようとする面々が雪崩のように押しかけてくる。それはたびたび自宅にまで及ぶことがあった。 あるとき、自宅に押し入ってきた令嬢がいた。貴族が下町まで来ることは珍しく、使用人の一人も連れていない令嬢を家に上げるわけにもいかない。お帰り願ったのだが、彼女は「嫁に来た!」と言って憚らない。 頭が沸いている令嬢は、絶句している間に室内に押し入った。そしてパンの入ったバスケットを頭の上で持ち上げたモリトと、スープ鍋を持ったハルを指さし命令した。 「今日から私がカリオン様の妻となります。お前達は使用人?」 その瞬間、気付けば食卓テーブルを手刀で二つに割り、令嬢の口には長いパンがねじ込まれていた。行儀が悪いな、と思えば、焼きたてのパンを触った感触が手の平からした。 カリオンは自分がやったことに気付いたが、頭に血が上ったまま令嬢をたたき出だす。首根っこを掴んで、二度と来るなと怒鳴りつけた。女性に声を荒げたのは後にも先にもこの一回きりだ。 あまりのことに逃げ出す令嬢を見送って荒々しくドアを閉めた後、驚いて硬直する二人を見れば涙が出た。自分でもどうして泣いてしまったのかわからなかった。 柔らかい指先が、恐る恐る目元をぬぐった。何か言いたそうなハルが口を尖らせながら、かすかに眉根を寄せて。目に心配の色が浮かんでいるのを見ると、たまらず抱きついた。小さな体はすっぽりと腕の中に収まり、肩口に鼻先を埋めれば花の香りがした。 自分の頭はおかしくなったのだとカリオンは思った。体が熱くなってくらくらする。そして壊れたように「使用人だなんて思ってない。本当だ」ずっと繰り返した。 その夜は狭いベッドに三人並んで眠った。 モリトからは果実のような香りが、ハルからは花のような香りがして、まるで春の森で昼寝をしているかのようだった。 翌日から今までのカリオンはどんどん壊れていった。 鋼鉄騎士はただの青年になり、頭のネジが飛び、自制がなくなった。気がつけばハルの耳にしつこいほど触り、嫌がられたら涙が出た。以前は大丈夫だった些細な拒絶や冷たい言葉に打ちのめされる。 戸惑ったハルが泣く度に目元を擦りに来るものだから、隙を突いて飛び掛かり……嫌がられて殴られた。 医務室に行って症状を訴えるが、医者は青筋を浮かべて蹴り出した。当たり前だ。馬鹿と恋の病につける薬はないのだから。 しかし、カリオンはここまで来ても自分がわからなかった。ゼーローゼの誰かに聞けば、体が成熟し心が追いついた。ただ一人の女性に歓喜するときが来たのだと言っただろう。……女性と言うにはいささか相手の年齢が足りないが。 しかし、カリオンには同族のゼーローゼに合わせる顔がなかった。 様子のおかしいカリオンに不安そうに接していた二人は次第に遠慮が無くなった。ハルは全力で嫌がり、距離を置き、殴ってくる。モリトはそれを眺めながらにこにこと笑う。 毎日頬に紅葉をつけながら、モリトと共寝した。二人の力関係は明確で、毎晩「まだ行かないで」と懇願する自分を情けなく思った。 少年は青葉のような瞳を向けて聞いてくる。 「ハルの事を大事にしてくれる?」 毎晩頷いた。 危うい均衡で成り立っていた日々が崩れたのは祭りの日。 そこかしこで露店が賑わい、つい似合うだろうかと買い求めた靴や装飾を山盛りにして持ち帰ると、戸惑ったハルに着てくるように促した。 モリトと二人でキッチンに追いやられ、うろちょろしていると、着膨れした天使が現れた。一枚でいいのだが、律儀にも何枚もある晴れ着を全部被り、不器用にとめられた髪留めが傾いている。そして俯きがちに「着方がわからないわ」と言い訳した姿にカリオンの最後のネジが取れた。 気がつけば触れるほどの口付けを、次に何度も何度も噛みついた。片手で後頭部を押さえ込み、逆の手で腰を抱え上げた。胸に押さえ込まれた両腕が慌てたように叩くのも苦にならず、口付けの合間に馬鹿な言葉を口走った。 かわいい、きれい、天使、耳がやわらかい、いい匂いがする、一緒に居たい。愛してる。 無意識に言葉に出してやっと気持ちがわかった。ねじが飛ぶのもおかしくなるのもそのせいだった。 ふと強く押されて拘束が緩んだ瞬間、カリオンの腕は空を切った。服の裾から銀色の何かが飛び出て椅子の下に丸くなる。 鋼鉄色の犬だ。いや犬でなく猫、でもなさそうだが猫に見える。が、本当は猫でもない――ハルだ。 その時のカリオンは空を飛べるほど舞い上がっていたのかもしれない。ハルが自分と同じだと思うと二つ目の姿に変わっていた。 太い鳴き声にハルが振り返り――踏み込もうとした彼は、頭からスープをかけられ止まった。 モリトが顔を怒らせ両手で鍋を持っていた。蒸気の上がるスープ濡れになったカリオンは一瞬で我に返った。毛にべったりと張り付くスープをはじき飛ばすことも忘れ「にぃ」と怯えた声で鳴くハルに凍り付く。 「ハル、ハル……ごめん。そんなつもりじゃなかったんだ。ごめん、ハル。ごめんね」 けれど丸まった彼女は鳴き続ける。怯えて小さくなって。 「……少し、出てくる」 頭を冷やさなければ、冷静にならなければ何をしてしまうかわからなかった。元に戻ったカリオンは服を被って掛け出した。近くの川に頭から入ってスープを落とし、服を絞って帰ったときには――誰も居なかった。 零れたスープは綺麗に拭き取られ、シーツは畳まれ、荷物は無い。 カリオンがハルのために買った装飾類や服がテーブルに乗せられ、その上に置き手紙があった。 モリトの字だ。 ――ハルが落ち着くように別の街を旅する事にするね。カリオンは大事にするって言ったのに脅かしたのを反省してください。メッ! そして裏側にはこう書かれていた。 ――ハルは毛繕いされたことが無いので、いきなりしないでね。ハルが「もういいよ」って言ったら帰るね。 カリオンは膝を抱えた。 今から追いかければ見つけられるかもしれないが、それはしてはいけないことだ。 モリトは勘違いしているが毛繕いではない。求愛だ。ハルはきっとわかっている。 彼女が帰ってきてくれるかわからないが、今は時間をおいて待つしか無いのだ。いつも怒った直後は何も聞いてくれなかったのを思い出す。泣き落としも今回は効かないだろう。 帰ってきて、と膝を抱えたカリオンはこの上なく情けなかった。 そして一日、二日……一週間と経ち、カリオンは使い物にならなくなった。 道を歩けば転がり、訓練に出れば新兵に顔面を殴られ、悪魔と戦えば危うく殺されそうになる。生気の抜けたリビングデッドの誕生だ。 周囲は突然の事に頭を抱え、使い物にならなくなったカリオンは遊撃部隊の詰め所に隔離され、日々、書類仕事に追われることとなった。 ――だがしかし、状況を変えるのだ。 カリオンは力強く拳を握った。使えない男にお嫁さんを貰う資格など無い。つまり様々なスキルを会得し、騎士団を辞めハルを追いかけるのだ。 跪いて許しを請い、今度こそ一緒に行く。 そのために、とっとと仕事を終えて家に帰らなければならない。頭の中には「初めての編み物~簡単にできちゃう手袋編~」を完遂するまでのシミュレーションが流れている。 と、昨夜、久しぶりにモリトにあった事を思い出し、カリオンの心は揺れた。 まるで、もう二度と会えないけど、もしも、もしも会えたらよろしくね! と言わんばかりの言葉だった。雰囲気も状況もモリトが真剣だったから、余計に心に刺さった。 ずーん、と落ち込みかけ、慌てて心を立て直す。使えない男に生きる価値など無いのだ。そうだ、きっとそうだ……やっぱりそうなのかな、そうだったら辛――くない、たぶん。 暗示をかけながら二つの姿を巧みに使い分け、カリオンは城下町へ向かった。水路の場所はおおよそ分かっているものの、やはり数が多い。 城下の闇深いところまで潜り込み最近おかしな事が無かったか聞き耳を立てた。 「やぁよねぇ。最近どっこもピリピリしてて」 いかがわしい店の裏口でタバコを吹かした嬢が三人しゃがみ込んで話していた。そっと近くに寄ると、煙の匂いに顔を顰める。タバコには少量の麻薬が含まれていた。違法薬物の類だったが、裏道の深いところでは大量に出回っているのが現状だ。 「オンドロード領の事が終わったら、今度は女ばかりが居なくなるものね。アンタも気をつけなさいよ」 「なぜ?」 カリオンは会話に混ぜるようにつぶやく。 「だぁって、アンタぼーっとしてるし」 「そうそう。それに、いなくなる子はみーんな嬢じゃん。最近怖がって辞める子もいるし、なにが起こってるんだろうね?」 「や、消えたのは嬢だけじゃないわよ? 大通りの売り子だって何人か」 「やだぁ、人攫いかしら?」 「てかアタシ聞いてないんだけど、さっきの誰?」 ぞっとしたように周囲を見回す三人組に気付かれないよう、屋根に乗ったカリオンは考える。 女ばかりが不自然に消え、死体が上がらない話は半日も歩けば耳蛸だ。それが、城で死んだ皿洗いメイドの特徴とよく似ている。 他にも風呂屋の値上がりの噂、泥渫いがきつい、どこそこの貴族が変態で、最近悪巧みを始めた組織がどうの……様々な情報が入ってくる。 失踪した女達に共通で接触したのは三名。どれも男で既に死んでいる。遺体は深く埋められた状態で発見され、首の後ろを半分ほど削られて即死していた。腐臭の中からかすかに下水の匂いを嗅ぎ取ったカリオンは、間違い無いと考えた。 彼らの住処に侵入し、匂いを辿れば行き着いたのは値上げした風呂屋に通じる下水道だ。枝分かれしたような水路は迷宮のようだが、数本に絞られる。そのどこかに大量の死体が詰まっているのか埋まっていると思うと憂鬱だ。 悪魔の目的は失踪した女達が共通の特徴を持っていた事から考えると人を探しているのだろうか。 おおよその検討をつけるが、後は生け捕りにして尋問するしかない。 屋根の上に乗っているだけだが、人間の体臭や香水、麻薬、タバコの匂いなどが混じりあい、頭痛がするほどの異臭が漂う。 「……もう十分だろう」 数日間の行動を振り返り、カリオンは尻尾を振ると城へ帰宅することにした。 がさり、がさりと乱暴に音を立てながら、それはゆっくりと歩き回る。思い浮かべるのは地上のことだ。 きつい日差しに鼻に付く土の匂い。 体が溶けてなくなりそうだ。その点、この空洞はいい。広いからどれほど歩き回っても退屈しないし、綺麗な水が流れている場所もある。 それは土壁を手の平で擦りながらうっとりとした。湿った地面の感触が心地よい。硬い手の平でざくざくと横穴を掘り出すと、水を含んだ土が零れる。至上の音楽のようだ。機嫌を良くしたそれは、さらに掘り進める。途中にある木の根を抉って、地上の熱を探りながら。 目的地はもうすぐだ。 と言うよりも、目前だ。 ゴゴゴ……と水脈の気配。泥が溶け出し水があふれ出すのを見つめながら、それは機嫌良く鼻をならした。 掘り進めた穴は水圧で決壊する。 これから全てを飲み込むために。