それがどれほど優しく

 目を開け、ハルは朝の匂いをかぎつけた。夢の残骸を払うように起き上がると、モリトの手がもぞもぞ動き尻尾を追いかけ始める。 「たまに思うんだけど、どうして反対になってるの?」 「むにゃ」  追いかけてくる手を払うついでに尻尾で頬を叩きまくり、ハルは服に顔を突っ込んだ。  外を見れば朝日があふれ出すところで、テラスに続く窓を開けると冷たい空気が体を包み込む。  少し散歩でもしようかと面を被り直すと、手すりを飛び越えた。  あ、と思出す。 「三階だわ」  慌てたが遅い。体は重力に従い落ちてゆく。ひやっとした空気が股を撫で、着地の衝撃に備えるよう身を丸める。  両足と右手、次いで左手をつけて着地すると足がじん、としびれた。骨に異常は無いが心構えが足りなかった。  痺れを取るように足を降ったハルはそのまま音のする方向へ歩き出した。  鉄と木を叩く音。誰かが近くで鍛錬でもしているのだろうか。  井戸の場所を知っているといいけれど、とテラスの下にある芝生の庭を横切り、回廊を横断した先を見て慌てて背を向けた。 「あ、おはようございます」 (……チッ!)  胸中で舌打ちされているとも思わず、カリオンはうっすらと微笑みながら片手を上げる。  薄いシャツが汗を吸って透けている。目のやり場に困りながら片手を上げ返すと、彼は近づいてきた。 「散歩ですか?」  どう答えるか迷っていると、彼は不思議そうに首をかしげた。一度も口を開かないのだから当たり前だろう。  ハルは自分の首を指さし首を振った。  それで伝わったのだろう。カリオンは少し顔を強ばらせ、頷いた。 「だから筆談だったんですね。失礼、お気を悪くされてなければ良いんですが……」  とんでもないと首を振る。  と、腹の鳴る音がした。うっすら目元を染めたカリオンは「朝食を食べませんか。サンドイッチを作ったんです」とハルを誘った。  後ろも見ずに行ってしまい、仕方なく後を追うと練兵場の端にバスケットが置いてあった。  ごそごそと中身を漁ったカリオンは一つ取ってハルにバスケットを渡した。膝の上に乗ったバスケットの中身を覗き混めば、中には野菜とハムのサンドイッチが所狭しと並んでいる。他にも揚げた肉を挟んだものや、内陸では珍しいフィッシュサンド。ドレッシングをたっぷりかけたサラダサンドがある。  こんなにたくさんどうしたのだろうか。  一つをとって首をかしげると、カリオンは苦笑する。 「もともと料理が好きなんです。この半年、気を紛らわそうと色々してたら腕が上がって、これでも評判はいいんですよ」  その頃の事を思い出したのか、目から生気が抜けていく。  ぎょっとしながら見つめれば耳がへたり、生者が異界にはびこるリビングデッドへジョブチェンジ。 「本当は、ハルに食べて欲しかったんです」  全身の筋肉が緊張に固まったのをハルは感じた。 「二人でピクニックに行って、色んな景色を見ながらゆっくりして、できれば手なんか繋いでふぐっ」  あまりの事に持っていたサンドイッチで口封じしたハルは、小枝を拾った。 ――忘れなさい! 「――。もぐもぐ、忘れるだなんてっ」 ――あなたが一緒に行きたかった女は今いません。所詮妄想、現実ではないのです。 「……う、ぐ?」 ――妄想にとらわれては周囲を見失います。  リビングデッドが膝を抱えながら地面を見る。  じわり、と盛り上がった涙に慌てて続けた。 ――辛い事はわかります。が、それを糧にし、前に進む事が重要です。俯いていては出会いの機会をなくします。料理のできる男性はきっとモテるでしょう。 「!」 ――女は世界中にいっぱいいます。道端に落ちてる石ころより多いかもしれません。その中から再び見つけなさい。  諦めて別の春を探すのだ。  そう書こうとした手を握り、リビングデッドは浄化された真摯な眼差しを向けてくる。 「師匠……!!」 (師匠!?) 「ありがとうございます、努力は無駄にならない。確かにその通りです! もう一度会えるはずだ、相手はこの国のどこかにいるのですから! 前向きになれる気がします。胸が熱いような、希望が持てるような! またお礼をしなければいけませんが、今日の所はこれをお納めください」  彼は食べかけのサンドイッチを飲み込んで、バスケットを丸ごと押しつけてくる。  興奮したように瞳を潤ませ、ぎゅっと親愛の抱擁をしたカリオンは、そのまま走り去った。  残されたハルは時間の経過と共に硬直が解け、うぐぐ、と喉の奥で唸る。 「いつも最後まで聞かないっ。曲解されたわ!」  筆談の弊害に致命的な物を感じつつも、どうする事もできない。  歯がゆく思いながら面を押し上げ、苛立ち紛れに噛み下したサンドイッチは――頬が落ちるほど美味しかった。  悔しさを感じながら指についたソースまで舐め取ったハルは空になったバスケットを覗き混み、うちひしがれた。  どうやって返せば良いのだろうか。  感情のまま走って仕事場にたどり着いたカリオンは、扉の前で足を止めた。両手を見つめ首をかしげる。  華奢な肩、細い手、抱え込めるほど小さく柔らかい肌の感触。そして触れた場所に残るかすかな香り。 「あ、れ……」  困惑する。  覚えのある香りだ。どこでかいだのだろう。そうだ、同じ香りだ。あの子と同じ香り――それと同時に鼻に付く香りで考えは霧散したが。 「おや、本日は地上に舞い戻っていたか。心一つで使い物にならない兵などないほうがいいと言うのに、陛下もお心が広い。死の国へ帰るのはいつ頃のお予定で?」  硬質な声音はその人物を現しているかのようだ。緑色の目をしたオオカミ族が角を曲がり角に立っている。ぴんと尖った耳に、黒い毛皮。突き出た鼻に乗っている眼鏡が光を反射する。 「これはこれはオリンガル・ハウル殿。このような執務室から遠い場所によくぞおいでくださいました。お忙しい御身がここへ来るとはよほどの事。さぞ重要な使い走りなのでしょう」  無表情で嫌味を言い放った二人は同時に舌打ちした。 「相変わらず口が悪い」 「お前に言われたくは無い。――用件は何だ」  「茶も出さず中にも入れずに本題に入れとは礼節と躾がなっていないですね」と舌打ちしたオリンガルは長い鼻の頭を掻いた。 「あなたに話す事など決まっている。城内に忍び込んだ悪魔が突然増えました」  聞こう、とカリオンは遊撃部隊の詰め所に招き入れた。  会議専用の個室へ入り込んだ二人は壁に背をつけて話す。座らないのは以前"足腰の弱い老人"とお互いが言い争って子ども染みた応酬を繰り返したのを引きずったままだからだ。 「城内の騎士達は何をしている」 「日夜悪魔退治に奔走しているに決まっているじゃありませんか。彼らは優秀です。優秀ですが今回は全く見つからないのです」  人数が足りないなどと言うどうでも良い理由ではなさそうだ。カリオンは認識を改める。  城内に入り込むのはいつだって人型の悪魔だ。一般人にとって見分けをつけるのは至難の業である。だが、訓練された王国騎士はほんの少しの悪魔らしさを嗅ぎつける。  その彼らが見分けがつかないとなると、なるほど遊撃部隊を訪ねるわけだ。  遊撃部隊はデーモンハンターより訓練された悪魔狩り集団である。  かつてあった悪魔の蹂躙。五百年前の悲劇を繰り返さないよう設立された遊撃部隊は、どの隊よりも悪魔を屠る事に特化した者が入る。現在でも隊のほとんどは単騎で国内に散り、悪魔に脅かされた土地を回っている。  他の神木よりも結界が弱いパイロン王国が悪魔の波に沈まないための措置だ。 「オンドロードから流れた住民の中に、大量の眷属が混じっていたと思われます。ここへ来るまでに殆どは王国騎士が滅ぼしましたが、擬態に特化した者が城内に侵入したようです」 「情報源は」 「ヘリガバーム教団」  顔を顰めたカリオンの疑問を察したのか、オリンガルは首を振る。 「客人ではありません。あちらに侵入した悪魔が口を割ったのを、潜ませていた密偵がかぎつけて持ってきた情報です」  さりげなく暗躍している事を告げられ辟易してしまう。が、王国には必要な事だ。 「で、こちらに入っている悪魔を根こそぎ刈り取れば良いのか。泳がせている者もまとめて狩るぞ」 「……あなたは落ち込んでいるときと、そうで無いときの対比が酷すぎますね。いつもきりっとしてれば恋人の三人は見つかろうというのに――失礼、忘れてください。目が死んできました押さえてくださいちょっと! 困りますよ!」 「誰のせいだ。……本当は仕事なんて放ってハルの所に行きたい、三人もいらないんだ! 一人でいいんだ!」 「そんな全国の男から刺し殺されそうなことを……。あーはいはい。面倒くさい男ですねぇ……じゃあよろしくお願いしますよ。相手はかなり擬態に特化していますから。人数も把握できていません」 「今度は何の用で侵入したんだ。心当たりくらいあるだろう?」 「悪魔の目的なんてただ一つでしょう……と言いたいところですが、どうも何かを探しているらしい」 「なんだ、つかめてないのか」 「誰かを殺す気なのは明白ですが、その相手がわからないんですよ。私は常日頃狙われているし、陛下もそうだ。ロンドネル領主もね。……ああ、彼の領地にいる悪魔も不可思議な動きをし出しているようです。どうも四方に散っている様子ですね……オンドロード領からいなくなったと思ったら、まだどこかを狙っている……?」 「かく乱の可能性は?」 「これは勘ですが、違うでしょう。おそらく移動をしている……いや、どこへ? 一番結界の薄い国はパイロンだ。順当で行けば悪魔が集中的に狙うのはここだが……いや、ヘリガバームの総本山がある。総力戦になれば教団も王国騎士も垣根が無くなるはず……」 「ヘリガバーム教団の神木は蘇ったと聞いた。生気を取り戻した。それを成した巫が教団へ来ているんだろう? その客人から詳しい話を聞くのはダメなのか」 「断言出来ますが、何も知らないでしょう」 「なぜそう言える」 「彼らの友がダグラス高位神官だからです。彼は学者であり最古の歴史に並々ならぬ興味を抱いている。腹芸や暗躍とは縁遠い僕です。神木を尋ねた理由は純粋に手紙通りでしょう。神木と話をしに来たのです。植物と話ができるかどうかは知りませんがね」  パイロン王国は、二本の神木が隣接する希な土地だ。悪魔を避ける結界が最も強いように思われるが、実質、最も弱く脆い。現在も変わっていない様子だ。 「結界の事はそのうち変化があるかもしれません。が、まったく、情報は鮮度が命だというのに……噂を聞きつけて各国の重鎮達がヘリガバームに問い合わせを殺到させているようですよ」  神木が枯れ木から蘇る。  これは教団の威光が強まり信者を大量に獲得できるチャンスだ。現在の教皇の考えから、信者を無駄に増やし、貴族にこびる事は避けようとするだろうが世界中に散った教団の者達が同じとは限らない。  制御不能になるまで膨れ上がるだろう。その中に悪魔が大量に混じり、教団を潰さないよう祈るばかりだ。 「まぁ、教団の事は置いときましょう。現状、入り込んだ悪魔の捜索と目的を明確にするのが急務です。頼みましたよ」 「殲滅もだろう」 「ええ」  わかりきった問いにわかりきった答えを返し、オリンガルは壁から背を外す。 「では鋼鉄騎士様、よろしく頼みます。くれぐれも魂を抜かれてリビングデッドにならないよう気をつけてくださいね」 「うるさい」  貴人が出て行ったのを見届けると机の影に隠れていた二人が顔を出す。青と白の鳥。カリオンの後輩であり部下だ。なぜかは知らないが二人はオリンガルを苦手とし、できるだけ顔を合わせないようにしている。  彼らはそっと機嫌を伺うようにカリオンを見つめる。 「何の用だったんです?」 「またどっかの地域が悪魔に占領されたんで?」 「いいや、他の騎士が見分けの付かないレベルの悪魔が城内に侵入している」  二人の表情が変わった。  お前達はここで通常業務をしろ、と言い渡し帯刀したカリオンは部屋を出る。 「最低でも数日は戻らない。不測の事態は副隊長とお前達で決めろ」 「了解です!」 「アイサー」  憂鬱で心躍る矛盾した心を抱えれば、カリオンの虹彩が淡く光り出す。押さえるように瞼を閉じれば輝きは成りを潜めた。  ここから先は狩りの時間だ。 ★★★  同時刻。  林の奥地に連れ込まれたハルはバスケットを持ったまま途方に暮れていた。  と言うのもふんわりと可愛らしい洋服を纏った令嬢と、扇情的に胸元を強調した色気たっぷりのお姉様にくわえ、ツインテールの幼女なご令嬢に囲まれているからだ。  三人娘は――若干一名は違うが――ハルが気に入らないらしい。 「あなた、どういうつもりで協定を破ったのかしら。万死に値するわ」  美女が指さすように扇を向け、 「そうよそうよ即死級よ! よくもカリオン様の朝の鍛錬を邪魔し、間近で汗のしたたる胸筋を眺めたなんて羨ま妬ましいっ」  ゆるふわ美少女がぎりぎりと歯ぎしりし、 「おなかすいたー」  幼女は腹を摩ってぐずり出す。  どちら様だろうか。  困惑を読み取った彼女達はフフンと鼻を鳴らし、無知なる下賤の民にご教授くださった。 「私達はカリオン様の親衛隊! 私ことローズマリー・アデラーテは侯爵家の三女にして親衛隊隊長!」  美女ことローズマリーがバサリと扇を開き、 「同じく親衛隊副隊長、アプリコット・ニメリア伯爵令嬢よ! この愚民っ」 「おれんてぃーら・にめりあです。ろくさいになりました。いもうと、です!」  ゆるふわ美少女ことアプリコットがその右脇に立ち、ハルに指を差せば、幼女オレンティーラが両手を開いた。右手が五本。左手が二本になっている。間違っているが些末な事だろう。  彼女達は一人を覗き高慢に微笑む。  どうだ参ったか愚民め、と表情にありありと記されていたがハルは黙殺し、改めて聞く。 「それで、お嬢様方は何用なのでしょうか」 「だ・か・ら! カリオン様の親衛隊と言ったでしょう! 私達の許し無く勝手に近づいたお前に制裁を与えに来たのよ!」 「そうよそうよ! 私達が毎朝いったい何時に起きてこの場所に潜入してると思ってるの! 城内に部屋を与えられているからって遠いのよここは!」  なぜか愚痴に発展したアプリコットはローズマリーに窘められ、黙る。 「ともかく、そう言う事であなたには弁えていただきたいのよ。今後一切カリオン様に私達の許し無く近づかないでちょうだい。お誘いは断りなさい。――あと、どうやってあの方を勇気づけたのか教えなさい」 「は」 「お、教えなさって言ってるのよこの愚民っ! お前の耳は飾なのかしら」 「そうよそうよ! 私達が言葉を尽くしてもあの方の死相は剥がれなかったのにっ。相手の女、憎しっ」  つい、と視線をそらしたハルは嘆息した。 「当たり障りのない事を言っただけです。本人はどうやら曲解したらしいですが」 「曲解?」 「そこまでは知りません。ご自分で確かめてください。それと」  空のバスケットを令嬢立ちに押しつける。 「なぁに? 私達に荷物持ちなんて――」 「カリオン殿の持ち物です。返していただけませんか」  瞬間、顔を歪めていた彼女達は微笑みを貼り付けた。 「あらよろしくてよ。カリオン様のものですものね」 「今なら近くにいるのではないでしょうか」 「急用が出来たから失礼するわごきげんよう!」 「ごきげんようっ! あっ待ってくださいまし、抜け駆けはずるいわ、ずるいわよ!」 「おねーちゃま、ごはんたべたーい」  手を引っ張られた幼女までもが風のように消え去り、ハルは目下の問題が無くなった事に安堵する。  その夜メイドが一人行方不明になり、翌朝死体で発見された。