ただ窮屈だった

 同じ頃、ハルは城の構造を理解しようと歩き回っていた。本来ならカリオンに見つかることを恐れて出歩くなどもってのほかだ。  しかし、そうも言っていられない。万が一の時の脱出経路は見つけておかなければならないのだ。  こそこそしながら周囲を伺い、胸のバッジを撫でる。そこにはヘリガバーム教団の関係者である紋章バッジが付けられていた。外部から来た客人の身分を王城で保障する物である。  通路の端に置かれている調度品の間隔が広く質素になっていくのを確認しながら、ハルは人気のない方向へ向かった。  耳はせわしなく周囲の音を拾い、どれくらいの人間がいるか感覚的に捕らえる。曲がり角から聞こえてくる音の大小でだいたいの構造を掴んでいったハルは外に出た。  カラッと晴れた空を見上げ目を細める。太陽の光で蒸発させられた空気が、水と大地の香りを漂わせていた。  そして、 「あそこに、神木がいる」  ハルの視線は芝生の丘から見える森に注がれた。しかし、その姿は見えず鳥の鳴き声ばかりが響いている。 「そちらは立ち入り禁止ですよ」  思わず一歩踏み出したとき、背後から声がかかった。  ぞっとしながら振り振り返ると、死んだような目をしながらハルを眺めている男がいる。瞬間、全身に冷や汗が吹き出し、思わず腰の得物に手が伸びた。 「ああ……今は休暇中なんです。こんな成りですが王国騎士でして」  そう言って膝を抱えていた彼は、薄いシャツ姿で肩をすくめた。下に履いているのは七部のゆったりとしたズボンで茶色の靴が足を覆っている。襟元から覗く筋肉を見ると細身だがしっかり鍛えていることがわかる。この距離では逃げるのは至難の業だ。  ぽつぽつと話し始めた男に対し、そんな所ではない心境のハルはどうしたものかと、脱出の糸口を探し目を泳がせた。初動で選択肢を間違ってしまった。ここはさっさと進めば良かったのだ。 「本日ヘリガバーム教団からいらっしゃったお客様ですね? ご案内しましょう。……ああ、お気になさらず。休暇と言ってもやることがなくて、付き合ってくださると助かります」  だがしかし、首を激しく振るも遠慮していると思った彼は手を差し出してくる。もうダメだ、と逃げ去ろうとした彼女の手を素早く握って、彼は歩き出した。 「あの森はパイロン王国が建国された際にあのように整えられました。この土地一帯は森でして、それを切り開いて王城が建てられたんですよ。ああ、お足元に注意してください」  さりげなく引き寄せながら、しかし死んだような顔をして続ける話によると、神木が目当てで戦をした歴史のあと、森を切り開き街を作り都市を造り現在の形にするまで三十年かかり云々……。  話はパイロン王国の名所から王都の美味しい料理屋さんまで続いた。ちなみにこの時、ハルは一言も発していないのだが、弾丸のように吐き出される言葉の海はつきることがない。精神のライフポイントがガリガリ削られる中、急に立ち止まった男を見上げる。  小高い丘に立ち、王都を一望出来る絶景を指さして今まで説明していたのだが、ぴたりと止まった言葉に不穏な物を感じた。 「……どうしてデートスポットまで網羅してるか、疑問に思いますよね」  唐突だった。  ほろり、と彫刻のように整った双眸から零れた涙が顎を伝って落ちた。彼は手を離すと両手で顔を押さえてしまう。 「本当は、案内したい人がいたんです。でも、嫌われてしまったんです。俺が不用意なことをしたから彼女が怯えてしまい」  膝を抱える姿を見て、正直ドン引きである。  鬱鬱とした空気をまき散らし始めた彼は、その後も止めどなく言葉と涙を流す。見る者が見れば頬を染めるような切なさを感じ、絵画に起しただろう。しかし硬直しきったハルはただ見つめるしかできない。  曰く、原因は自分にあって、相手がこの国に定住していない旅人で焦ってしまった。あの時もっと相手の気持ちを考えていたら、音信不通にならなかったかもしれない。どこへ行ったかもわからなくて、連絡の手段もとれなくて辛い。謝りたい等々……。  硬直は解けたものの、体の中心から魂が抜けていくような気がした。それを押さえるように胸を撫でたハルはその隣にしゃがみ込んだ。  しかし何と書こうか。時間だから帰る……もっと泣き出すかもしれない。そうしたら自分が泣かせたみたいになるのでハルは面の下で顔を顰めた。ではもう忘れろ、はどうだろうか……やはり泣いてしまう気がする。 ――悔やんでも終わったことはどうにもできない。  剥き出しの地面にサラサラと書くと、ぐすっと鼻をすすった彼は気付いたように地面を見た。鼻の頭が赤くなって別人のようになっている。  どうだ、と見れば、まるで失恋した乙女のごとく弱々しい眼差しが続きを促すようにハルに注がれる。 ――泣いてても何も始まらない。日常に戻るべき。 「日常に、戻る?」 ――いつまでも情けない顔のままじゃ周囲の者も困る。そんな男はモテない。  ショックを受けたように涙が止まった。一瞬決壊するのではないかとびくついたハルは慌てて書き足す。 ――情けない男は好まれない。あなたは顔が良いからちゃんとしてれば次の出会いがあると思う。 「……次っ!」 ――だから、その人のことは忘れて、次の出会いを探し 「そうですよね!! 次に会ったとき今の俺じゃ幻滅される。今まで以上に励み――いえ、この半年分を取り戻さなければ」  え、とつぶやいた声が聞こえなかったのは僥倖だった。慌てて書き足そうとした指を男はつかみ、シェイクハンド。  気がつけば死んだ魚のような目が生気を取り戻した。リビングデッドが浄化され、生者に生まれ変わってしまった。  戦慄である。 「ありがとう、このご恩はいずれ!」  身を翻した彼に追いすがろうとも、声が出せない。なぜなら一発でばれてしまうからだ。ハルは舌打ちしたいのを押さえて、地団駄を踏んだ。本当は、次の出会いを探しなさいと諭そうと思ったのに。 「ハル!」  男が去って行った後を睨みつけたハルはびくりと振り返った。建物の影からひょっこりと頭を出したモリトは、目をきらきらとさせながらハルの足下までかけてくる。 「よかった! カリオンと仲直りしたんだね!」 「してない!!」  下唇を巻き込むように噛んだハルははっと周囲を見回した。誰か来る様子はなく静まりかえっている。先ほどまでの苦痛な出来事を思い返したハルは、部屋に戻ろうと早足に歩き出した。 「でも、さっき……」 「カリオンはわたしだって気付いてなかったわ。……失敗した、やっぱり早めに別れておくべきだった」 「そんな事言って、カリオンが元気になって嬉しいでしょう?」  嬉しくない! と言いかけて口ごもる。まさかあんな腑抜けに成り果てていると誰が思うだろうか。唇を噛むのを止めたハルは尖った声で言う。 「こうなった以上、わたしの名前を呼んではダメよ。カリオンに何をされるかわからないから」 「そんなの無理だよ。ハルはボクの名前を呼ばないで暮らせるの?」 「……………」  無理だ。だが、やって貰わなければならない。  そしてカリオンが何かする、と言うところをモリトは否定しない。 「わたし、もうあんなの嫌」  「カリオンだって反省してるよ!」という言葉は黙殺し、ハルは宛がわれた客室へ向かう。 「それより、どうしてここにいるの。待っててって言ったのに」 「はうっ」 「部屋についたらきっちりと説明してもらうから」  ぶー、と膨らませたモリトの頬を突っついて帰ろうとしたとき、 「あれ、どうやって帰ればいいの……」 「ボク知らないよ」  顔を見合わせた二人に、背後から「どうしましたか」声がかかった。  若い男が桑を持ちながら近づいてくる。視線がさっと胸元のバッジに飛ぶと心得たように話しかけられた。 「お客様ですね、道に迷われましたか? わかるところまで案内しますよ」  どうぞこちらへ、と促す男が出てきた先を見る。 「あの、あなたは?」 「ああ! 庭師ですよ、ほら」  彼はポケットから紋章を一つ取りだして二人に見せた。木の模様が縫い付けられている布はずいぶんと使い古されているようだ。 「お客様はどこから来なさったんですか? その紋章だと城に滞在されてるんですよね? 誰かの子供かな、ご両親は?」  彼は良いところの子供だと二人を勘違いし、親元へ帰そうと顔をのぞき込んでくる。もしかしたら、よく案内をしているのだろうか。  と―― 「何をやっとるんじゃ」 「ああ、ファルバさん。今、迷子のお客様を見つけたんですよ」  水やりは終わったんですね、持ちますよ。いいや、大丈夫だ。と話をした老人の顔は半分焼けただれていた。頬の中心から伸び上がる炎に撒かれたかのように毛皮が剥げ、赤い地肌が覗いている。獣人だろうか。灰色と茶色のまだら毛がパサパサに乾いている。耳は両方とも端が千切れ、ぼろぼろだ。種族はわからない。  老いた貫禄を見せる縦の瞳孔が二人を見つめ、頬まで裂けた口から牙が覗く。 「どこから来なさった」  体に打ち込まれるような深い声音だ。知らず震えたハルは、そんな自分に内心首をかしげながらファルバの顔を見つめる。どこかで見たような気がする。  しかしわからず、口を開けた。 「ヘリガバーム教団の総本山から」  それを聞いたファルバの表情は筆舌に尽くしがたい物となった。憎悪、苦渋、後悔や自嘲が混ざり合い、眇められた目がハルを睨みつける。 「何用で来た」 「神木に会いに来たんだよ」 「また神木の枝を折り、増やそうという魂胆か。それとも枝を接ぎ木しろと? お前達の思いつきに付き合うのは、もう沢山だ!」  胸を押されモリトはよろめいた。支えるように手を伸ばしたハルはファルバを睨み上げ怒鳴った。 「老いぼれめ。その首もいでやろうかっ!」 「ハル、大丈夫だから止めて! ……おじさん、何を勘違いしてるか知らないけど、ボク達はそんな事しないよ。神木と話しに来ただけなんだ。ヘリガバーム教団の神木と僕はお話しできるよ。それでね――」 「今度は詐欺師か。パイロン王国の神木はゼーローゼの者が世話をする! 出て行け、神の下僕ども。お前達に庭は踏み入れさせぬ。ゼーローゼは絶対に許さぬぞ」  それだけを言って彼は去って行った。申し訳なさそうにした庭師が慌てて二人をなだめる。 「すみません、彼はとても神木に傾倒しているんです。パイロン王国ができる前にあった王国で代々神木を世話ていた一族の末裔なんですよ。だから神木のことになると熱くなってしまってですね……」 「ゼーローゼって言ってたけど、それが神木の管理をしてる一族?」 「ええ、まぁ」 「ボク達は神木に会いに来たんだけど、王様が駄目だって言ってた。お爺さんの反応と関係あるんだね?」  庭師は「参ったな」後ろ頭を掻きつつ人差し指を口元に当てた。 「庭師の間じゃ公然の秘密ってやつなんですがね、建国の時……五百年前かな。大地を荒らされた神木は一度枯れかけたんです。悪魔はその隙を突いて侵略してきた。そのとき神木を持ち直させたのがゼーローゼ一族で、建国王とゼーローゼ一族は取引をしました。それが神木の世話を一族に一任すること。だからゼーローゼの許可無く陛下も神木に近づけない。そう言う約束をしたそうです」  だから誰も逆らえないのだと庭師は言った。 「まぁ、持ち直したと言っても、枯れかけているんですがね。話は終わりにして中へ戻りましょう。昼飯の時間です」  背中を押され二人は押し込まれるように城の中へ入った。  頭を占めるのは神木とゼーローゼの交わした約束。そしてゼーローゼがヘリガバーム教団を嫌っている事実。国王でさえ口出しできない権限を持つなら、神木に合うのは至難の業だ。謁見の席も無駄になるかもしれない。 「帰ったらダグラスに相談しよう。ね!」  モリトが手を握る。 「……わかったわ」  嫌な予感を感じながら握り替えしたハルは面の紐をするりと撫でた。 ★★★  最強の武を持ちながら心はかくも弱いものなのか。二つそろっていれば良いものを、と口惜しい思いで嘆息した。 「アレの様子はどうだ?」 「依然として治りません」 「原種の血というのは厄介極まりないな。心一つで全てが上がりもし、下がりもする。相手はまだ見つからないのか」 「捜索させているものの、見失ってからは一度も発見できていません」 「雲隠れの達人か」  舌打ちと共に言えば、秘書の男は苦笑する。 「恋ほどままならないものはありません。ところで陛下、例の件いかが致します」 「話合うしかなかろう。無下にもできぬ。今頃は城の噂で真実を知っているであろうがな。この国を支配しているのは王侯であるが守っているのは庭師だと」  忌々しく思っているのだろうか、と秘書の男は顔色をうかがった。茶器から乱暴に飲み干した茶が口元を濡らし、国王は乱暴に指でぬぐった。 「苛立つことばかりだ。ヘリガバームから来た巫というのも胡散臭い。神木が枯れるのを止めた。けっこうなことだ。だが、目的は何だ。我が国にその崇高な行いをマネさせてやろうとでも言うのか。だが、失敗して枯れては困るのだ!」  苛立ちと共に置かれたカップが激しい音を立てた。 「情報はまだ集まらないのか」  質問では無い、独白だ。  秘書は見極めた。  こと神木のことになると過剰なまでに精神を尖らせるのは、致し方ないと言えるだろう。神木一本、されど一本。枯れれば王国は終わりなのだ。王侯貴族よりも最重要視されるのが神木だ。神木の元でしか地上の生き物は暮らしていけない。国防問題にも関わってくるのだ、相手の出方が知りたいと思うのは間違っていない。 「陛下は神木が枯れ木から治った話に希望を見いださないようですね」 「枯れかけた話は王家に伝わっているぞ。お前も聞けば余と同じ事を思うだろうよ。……枯れかけたままでもよい。世界が終わるまでそのままでいてさえいれば。そのためのゼーローゼだ。奴らが絶えぬ限り神木は不動だ」 「陛下……」  それは国の行く末を一つの一族が握ると言う事だ。無欲に庭師を続けていることが奇跡というほどの低い待遇で満足した一族が、いつ欲に駆られるかわかったものじゃないが、その気配は無い。  それほどまでに神木と交わした約束は大切だとでも言うのか。  王は苦悩の呻きを上げ、秘書は慰めるような視線を送った。しかし、事態は好転しない。 「客人が詐欺師でない事と親切の押し売りをしないことを願おう。使者達は今どうしている?」 「お部屋でお休みになっています。ディザスが陛下へのお目通りを願っていると申しておりました」 「一週間後にしろ」 「しかし陛下……」  言いよどむ秘書を手を振って黙らせる。  わかっている、先延ばしでしかない事を。しかしヘリガバーム教団には特に注意しなければならない。七日で彼らを退ける方法を考えねばならぬだろう。  噛みしめた歯が音を立てる。  犬を払うように秘書を追い立て、無人になった執務室でパイロン王は苛立ちを押さえるように瞼を閉じた。