どこを見ているのか

 文字の読み書きができるのは特権階級の者達が大半で、他は教師職などしか普及していない。ハルが覚えたのは必然であり、最古から生きる神木の思惑によってだ。 ――教養のない女は悪い短命種にひっかかる。  が口癖だったモリトの母木、レイディミラーは教育熱心だった。  事実、口頭で告げられた契約と紙の中身がまるで違うという悪魔のような商人もいたため、心から尊敬と感謝を捧げるが。  その手の話は割愛しよう。  今、大切なのは手紙の返事を書くために代筆屋を探すことだ。  大通りを外れた場所に代筆屋はあった。恋文を読んだり書いたり、気の利いた文章をお願いするために、庶民も出入りのある場所である。  立て付けの悪い戸を開けると、妙齢の女性が顔を上げた。暇そうにしているところを見ると、仕事は一段落しているのだろう。 「いらっしゃいませ。どのようなご用件でしょう?」 「手紙の返信を頼みたいのですが。相手は貴族も入っています」  目の前に手紙の束を差し出すと、女性の表情筋が引きつった。 「ちなみに期限のほどは……」 「ありません。お誘いは全て辞退します、と。金額はこれで」  金貨を五枚並べると、引きつった顔がさらに引きつり、目が爛々と輝きだした。素早い動きで裏表確認された金貨はすぐに懐にしまわれた。 「当店では、お客様が目を通された物でないと返信できない決まりとなっております。今日は店じまいしますので中へどうぞ! お兄ちゃん! お兄ちゃん! あ、いえ、オーナー!!」  風を切るように、しかし走らず店じまいの看板を「店仕舞い」に変えてきた女性は、奥から気だるそうに出てきた男を引っ張って二、三言葉を交わした。男の雰囲気がしゃきりと変わり、高級レストランの案内人のごとく滑らかなエスコートで二人を奥の部屋に押し込んだ。  上客用の客室だろうそこは、机と柔らかいソファーに誰が描いたかわからない絵画が一枚飾られていた。素朴な印象を受ける上品な部屋だ。  座っているとお茶と飴が差し出され、モリトの口に吸い込まれるように消えていった。子供は食べ物を与えて黙らせるタイプの女性は、返信用のインクと紙、封筒の質を問いかけてきた。  金貨一枚で一般家庭が働かなくても裕福な生活が送れる期間は訳一ヶ月。普通に暮らすなら二月だ。  紙もインクもあまり普及していないため割高だが、金貨五枚は破格と言えた。料金表がないため適当に置いたが、大丈夫だったことにハルは胸をなで下ろす。 「采配に任せます」  女主人がメイドに告げるかのごとく厳かな空気が一瞬流れ、女性はぱちりと瞬いた後、心得たと言うように頷いた。 「では上等紙の二十三番を使いましょう。普及はあまりしていませんが、紙の質感は柔らかく珍しい花の香りがします。封筒は五番の上等紙でよろしいですね。封はどうなさいます?」 「平民ですから」 「わかりました。ではそれ用の物をご用意します」  一般市民が蝋封する場合にも決まりがあったようだ。内心冷や汗を流しつつ「無難な物をお願いします」かろうじて言った。  用意されたペーパーナイフで一枚目の手紙を読んでいる間、兄の方は机の上に用紙を並べ始め、残りの手紙が一般人か貴族か仕分けていった。  一通目は貴族から晩餐の招待状だった。都合のいい日時を打診している。美辞麗句の並べ立てられた文章は大半不要な装飾言だったが、物珍しくもあり、面白かった。本人が聞けば憤慨しそうな感想だったが。  ハルが一通目を読み終え兄に断りの文章をお願いすると、彼は階級と内容をぱっと斜め読みする。 「お客様、どの程度はっきり断りますか?」 「といいますと?」 「貴族の要望を断る事は、階級が下ならあり得ないことです。侮辱にも等しいので、戦争の原因になる事もあります。オブラートに包んで遠回しに濁しつつ断るか、相手の都合の悪い日を探し出してわざと断らせると言う手もありますが……」  なるほど、と厳かに頷いた。 「戦争になったら勝ちます。後者は面倒ですし、前者でお願いします」 「――。……わかりました。ところで、お名前は?」 「ハル。ただのハルです」  兄は頷いてペンを走らせ始めた。書類は何処でも使うためか、インクにペン先を突っ込むタイプと万年筆がある。安い客と分けているのだろう、兄の持つ万年筆は古いが上等の物だった。ペン先も貴族が見れば、どれを使っているのか一目瞭然なのだろう。  二通目は高級紙からでインタビューの依頼と料金が書かれていた。自ら注目の的になったっていい事はないし、金にも困っていない。早々に読み終えたそれを女性が受け取り、二、三された質問を返す。  全ての手紙を読み終えたときは小説を一冊読み切ったような量になっていた。二十通あった手紙は全て返信を依頼した。金貨をもう一枚置いて返事をきっちりお願いすると、兄妹は店の入り口までほくほく顔で見送った。  日は傾きつつあったので、通りの高級宿に泊まった。銀行へ行ったばかりなので懐はずいぶん温かい。端から端まで一品ずつ頼み、二人で半分に分けた。  柔らかく煮込まれた肉の入ったシチューに堅く焼いたパンを浸す。かりかりだった部分が柔らかくなり、残りをバターをつけて食べる。ブドウを発酵させたジュースはシュワシュワとしていたが酒ではなさそうだ。一気に飲み干して青い果物のジャムをソースにした冷たい果実をかじる。  丸焼き鳥の中には野菜の混ぜられた米が入っており、肉汁と野菜のうまみが凝縮されたスープライスになった。薄い皮に包まれた甘い蒸かし芋や香辛料のきいたソテーを平らげると、食後を見計らった給仕がデザートを持ってきた。冷たく冷やされたシャーベットで熱い腹を冷やさないように、熱した暖かいチョコレートソースがかけられる。  大量に食事をする二人が見苦しく見えないのは、最低限のマナーを守っていたからだ。一粒も残さず平らげると、お腹いっぱいになったモリトが船をこぎ出した。  食後の休みもほどほどに部屋へあがると、スプリングのきいた柔らかいベッドが中心に置いてあった。二人寝ても両手を伸ばせるほど大きい。  ハルは頼んでおいた湯を使って、眠そうなモリトを上から下まで丸洗いした。備え付けてある室内用の服を借りて、つやつやになったモリトをベッドに寝かしつけると、三秒で寝てしまう。  そのままハルも髪と体を簡単に拭き清めたあと、そっと部屋を出て街へ繰り出した。その手にはモリトの脱ぎ捨てた服と財布が握られている。  都会の夜は遅い。  行く手を阻むように出現する売春婦と素行の悪い大人達の横をすり抜けながら、閉店間際の服屋に飛び込んだ。  店内の既製品から旅に適した丈夫な衣服を選び出し、サイズを確かめる。自分の物も下着一式含めて新調した。ベルトは丈夫なのでそのまま使うことにする。  三十分もしないうちに全てを選び会計を終えたハルは真っ直ぐ高級宿へ戻った。モリトを一人寝かせるなら、やはり高い宿ではないとだめだと再確認だ。  ドアマンにうやうやしく扉を開けて貰いながら、しかし内心首を振る。  同じ宿を何度も利用は出来ないだろう。  それは金銭的な理由ではなく、常連になってしまう事への懸念だ。高級宿はたくさんの者と繋がっている。出資者や経営者の意向で違うが、わざと情報を流して人と人とを引き合わせたり、勝手に客が押しかけることもある。  彼らは上等な教育を受けているので、眠っている所をたたき起こしたり、無理矢理入ってきたりはしないが、それと同じくらいのやっかいさを持っている。  やることを終わらせたハルは、手をぬぐって靴を放りだした。明日には捨ててしまう服を取り払って裸になると、本性に戻り大きく伸びをする。固まった肩をほぐすように動かし、モリトを抱えると目を瞑った。  足音、物を置く音、会話、誰かが湯を使う音。虫の羽音さえ耳に入ってくる。その中から自分達を害する音が来たときのために、浅い眠りについた。  翌朝、二人は新しい服を身につけた。モリトは黒に近い紫のジャケットに、黒のシャツ。膝の膨らんだズボンにひざ丈のブーツ。お坊ちゃん風になってしまったが、元々が甘い顔立ちをしているためちぐはぐ感はない。それに麻布のマントをかぶせ、金具で止めた。  ハルが選んだのは動きやすいショートブーツに、くるぶしまである浅葱色の刺繍が入ったワンピース。上に堅い素材で出来たコートを羽織り。肘まである手袋をはめた。あとは精巧に出来たキツネの面を紐をきつく縛る。髪を適当に垂らしてフードを被れば狐の獣人にそっくりだった。  モリトにフードを被るように促して、二人は宿を後にした。  ルフュラの事を探すために一度ロンドネルに戻って領主を訪ねた後、引き留める領主を振り切って辻馬車に乗った。続報は「待て」のようだったので。  辻馬車の中で噂話を聞いた。オンドロード領の英雄の話が多い。  しかし、とハルは面の下で失笑した。  オンドロード領の英雄は、まるで別人のようだ。三メートルもある巨体に角が生え、一声で山を破壊するそうだ。それは短命種ではなく悪魔である。そんな悪魔がいたら世界は一瞬で平らになるだろうが。  モリトが手を引くままに進む。ロンドネルからあの忌まわしい町を通り過ぎ、さらに東へ進んでいくと、人通りは減りだした。  辻馬車もなくなり徒歩と野宿をしながら街道を進むと、ついに舗装された道が消えた。同じように先を目指すのは敬虔な使徒達。くたびれた白装束に身を包んだ神官や既製品を着た平民もいる。  東にはヘリガバーム教団総本山があった。  ハルは記憶を呼び起こし、ぽてぽて歩いているモリトに聞いた。 「誰がいるんだろうね」 「わかんない。でも、ボクのことを呼んだよ」  もしかしたら、呼んだのは神木かもしれない。ヘリガバーム教団の総本山には二十四本しか無いうちの一本がある。  短くない間、旅をしてきたが神木に会いに行ったことは無い。広い社会を気の向くままに歩いてきただけだ。 「付けばわかるかな」 「付けばわかるわよ」  と。  なぜかわからないが、息苦しくなった。奈落の穴に足をつけながら上ばかり見て手を伸ばしているような、喉を見えない手で掴まれているような。  ふらり、ふらりと足が軸を失い、骨をなくしたように力が抜けた。 「ハル!」  あ、と思ったときには暗闇がハルを包み込んだ。  目を覚ますと、ハルは寝台の上に寝かされていた。消毒液とお日様の香りを嗅ぎ取りながら首を動かすと、モリトが寝台の横に座っていた。目が覚めたハルを見てほっとしたように手を伸ばしてくる。 「わたし、どうしたの」 「倒れた所を巡礼の者達が見つけて運んできたんだが、意識はしっかりしてるかね?」  答えたのは初老の男だ。彼は榛色の長い髪を垂らし、白を基調とした衣服を纏っている。首から提げた大きなペンダントは手の平ほどもあり、大きく彫り込まれた紋章はヘリガバーム教団のものだった。 「ありがとう、ござます……」  神官の一人だろうか。体から生気が抜けたように力が出なかったが、礼を欠いてはいけないと起き上がった彼女を、男は制す。 「体が衰弱している。栄養のある物を食べて、ゆっくりと養成しなさい」 「嘘でしょう?」  食事も睡眠も取っていた。眠りは確かに浅かったが、世界最古の狩人がその程度でへばるわけがない。  愕然としているとモリトがハルの手を握った。 「ハル、おじいさんの言ってることは本当だよ」  小さな手が前髪を弄ぶ。  全く心当たりはなかった。あの時まで、きちんとハルの体は動いていたのだから。  モリトがしゅんとしながら「ごめんね」と言った。見る間に盛り上がった涙が、あっという間に零れた。 「ハルが疲れてるの、わからなかった」 「仕方ないわ。わたしも気づかなかった。きちんと休むから泣かないで」  指先で涙をぬぐってやりながらハルはもう一度、男に礼を言った。見立てでは一週間は安静にしなければならないらしい。 「滞在費ですが……」 「病人と子供からお金は取らない事になっておる。貧しい者からもの。もし、気になるならば後で奉仕活動を手伝ってくれればいい。――ああ、掃除や洗濯で宗教勧誘ではないよ。そんな顔をしなさんな」  はは、と笑うと気がついたように男は言った。 「そう言えば名乗っていなかったな。儂はヘリガバームの治療神官をしているヘイシス。お嬢さんのお名前は?」 「ハル」  そうか、とヘイシスは頷いた。 「眠りなさい。食事の時間になったら起こそう」  手の平に輝いた魔術が頭に触れると、再び暗闇が包み込んだ。