考えなければならないと

 見上げれば空に浮かぶベヒモスの背にディアボラが乗っている。悪魔達は彼を認めると救世主がごとく悲鳴を上げ、足下に走り寄った。泣いている者もいる。オンドロード領を蹂躙し、恐怖に陥れたはずの悪魔が、怯えきった表情で。  引きつった顔をした彼らを見下ろし、ディアボラは方頬をつり上げた。視線の先にはアエーが転がっている。 「ヤァレ、思念を飛ばされて飛んできてみれば……。一瞬遅かったみたいだ」 「アエーは倒したわ。まだ、かろうじて死んでいないだけ」  一目見ればわかる。致命傷だ。あと十分も持たないだろう。 「その強さ、その気迫……思ってた以上に厄介みたいだねぇ。何をしたら君を退けられるだろう」 「お前達がこの土地からいなくなるまで、狩りは続くわ」 「誓ったってわけだ? 君達の誓いが命がけなのは嫌と言うほど知ってるよ。ヤァレ、困るなぁ」  ディアボラの背後には乗っ取った大地に何百という悪魔が控えている。しかし、彼らは恐怖に勝てないだろう。狩ると決めた獣から逃げるために一体どれほど死ぬのだろうか。悪魔より化け物じみた生き物に勝てる見込みは低いのに、命を散らすのはかわいそうに思えた。  計算するまでもなくディアボラは決断する。 「オンドロードから悪魔は撤退しよう。必ず、一人も漏れずに。見逃して貰えるかな?」 「ざけんじゃねぇよ!!」  と警備員の怒声が響く。 「あたし達はまだやりたんねぇぞ!」 「降りてこいよトリィー!」 「すかしてんじゃねぇぞトリィー!」 「アヒャヒャ! とりー」  ちらりと一瞥したディアボラの虹彩が輝く。刹那に魔術が発動し、無差別に風の刃が降り注ぐ。そこかしこで煙が上がり、切り倒された木が二次災害を起こした。悲鳴があがるが、ハルは動かない。金と赤の眼差しで穴が開くほどディアボラを見つめている。  背中にぞくりと悪寒が走った。 「そう息巻かなくてもまた来るよ。うん、来るね。またねぇ」  真下に浮かんだ巨大な空間の裂け目が、まるで底なし沼のように悪魔達を飲み込んでいく。水を求める魚のように悪魔達は飛び込んで消えた。  追いすがる者はいない。一歩進み出ればそこは悪魔の世界。魔界なのだから。  最後にディアボラがベヒモスと共に姿を消す。  亀裂が綺麗に消えると空は元の青さを取り戻した。  何年ぶりかの晴天が、オンドロード領に帰ってきた。  移転先の広間には多くの物資が既に運び込まれた後のようだ。  ディアボラは肌に張り付くシャツの感触に舌打ちしたくなった。脂汗で重くなっている。  ベヒモスからアエーの体を受け取り、肩に担ぐと巣へ戻るよう命令する。  飛び立つベヒモスを見ていると、転がりそうになりながら白衣の吸血鬼が駆け寄ってくる。 「ディアボラ様、お怪我は!?」 「見ての通りだよ。君達は仕事に戻って。今、イライラしてるんだよね……」 「ではアエー様の手当を……」 「報告が先だ」  うっそりと告げると吸血鬼は戸惑った眼差しをディアボラに向けた。アエーはまだ生きている。助からないかもしれない。しかし、助かるかもしれない。  それをしないと言う事は、そういうことだ。  何かを飲み込んだように頭を下げると、吸血鬼は他の負傷者の所へ行く。心配してくれる彼らには悪いが、早めにアエーをつれて行かねばならない。  衛生兵が飛び交う中、ディアボラは謁見室に続く廊下の扉を開いた。昨日と今日、連続してここを通ったのは百年ぶりだ。しかも両方とも著しくない報告のために。  何度肝を冷やせば安寧を得られるのだろう。  自分より何倍も大きなアエーを担ぐのは面倒この上ないが、ディアボラは歩みを止めない。 「う、ぐ……」 「最期に目が覚めた? まったく酷いありさまだねぇ」 「カカカ……。神獣はどうした」 「撤退したよ。陛下はかなぁり、お怒りだ」  首からの出血が酷い。反動でで目でも回しているのだろう。ディアボラはうなり声を無視して進む。 「陛下は全軍に神獣の存在を知られること、嫌がってたよねぇ。まぁ、アンタ以外の重鎮全部だけど。何で正面から探しに行った? あの場で知らしめる必要はなかったじゃん」 「今頃、そなたの研究施設は灰か。いい気味だわい」 「……狙いはそれだったってわけ? 今、全部燃やさせてる。短命種に見られるわけにはいかないからねぇ。――ごめんね」 「やめよ。そなたとは友でもない。同僚でもない」 「でも、同士だった。……わざと負けたのか?」 「手を抜けるような相手では、ない、ぞ……」 「そう、そうだね。そうだよねぇ――だけど命を捨てるような真似はするべきじゃ無かった。そうだろう?」 「だが、誰かがやらねばならぬ。悪魔は減りすぎた。エディヴァルは諦めるべきだ。我らが住まえば一時はよいかもしれぬ……しかし、いずれ大地は、くさ、る………」  そうだったではないか。  呟きは最もだった。  悪魔は大地を腐らせる。現在住まう最期の土地も、いずれ毒にまみれるだろう。  涙が出ちゃうよねぇ、と自嘲しながらディアボラは、たどり着いた謁見室の扉の前でアエーを横たえた。 「完敗だった……あの獣、吾輩に手心を加えた……恐ろしい事に、最後の一撃は、急所を、わずかに外していた……」 「なぜ?」 「吾輩に、撤退命令を出させたかった、のだ………。お前に、させたようにな。あの歳で、<神眼>を使う。再来やもしれぬ。………………しかし、伝えてはならぬ。<神眼>も、だ」  それはアエーの名誉に関わる。しかしディアボラは頷いた。 「……後の事はまかせなって。遺言はあるの?」 「殿下を、たのむ」  だと思ったよ、と苦笑した。  ディアボラは表情を一変させた。道化のように――事実そうだが――ニタニタと笑い、声を張りあげる。中にいる者達に伝えなければならないからだ。 「陛下はお前の言葉はいらないって。筋書きはこう……報告した後で死ぬ。名誉の戦死だねっ!」  ディアボラは無造作に蹴りを入れた。爪先が鎧を砕いてアエーの首を二つに折った。即死である。  しかしアエーはもう死んでいた。死者に鞭打つ行為は何度やってもよろしくない。 「まったく、酷い。最悪だね。最悪な大敗だ。でも、次はそうはいかない。どんなことをしてでも、殺しにかかる。……アァ、妬ましい。神に作られ愛された獣。私達は神に愛されず、腐る大地と共に心中しなければならない」  奪いたいナァと落ちくぼんだ目が歪む。  ディアボラは物言わぬ死体になったアエーを残したまま、扉を開いた。  米神を引きつらせた魔王シティパティは「片付いたか」イライラした口調だ。 「見ての通りです。新開発の鉄骨入れた靴の威力もご覧の通り。しかし、よかったんですか? あんなのでも神獣がいない所じゃ一騎当千でしたでしょうに。もったいないなぁ……アァア」 「それでは妾の気が収まらぬ。今や悪魔の総数はエディヴァルの半分にも満たぬと言うのに――使えぬ兵を増やした」 「この間粛正いたしましたからね」  同じく米神を引きつらせたシュマが補足する。その端で、ランダが小刻みに痙攣してた。 「マジ怖いッス。逆らわないようにしよう……」 「真相を知った悪魔は全て粛正せよ。情報を口外するな。……忌々しい獣め。八つ裂きにしてやりたいのぅ」 「研究資料も施設も丸ごと移転が完了してますねぇ。今後、研究はどうします? 必要な物はどこからだって手に入るから問題ないですけど? アァ、もしかして私の事、殺しちゃいます? 困ったなぁ、引き継ぎまで待っていただけません?」 「そなたは力が無い代わりに頭がいい。基地の放棄、撤退は認めよう。優秀な部下はことさら大事にせねばならぬ事が、今回の事でようわかった。妾の人選ミスもあったの。今後はもっと頭を使って考えねばな」  引きつった口が大きく息を吐くと黒いシミが広がった。毒を吐くほどに怒り狂っているのだ。 「研究所はまたどこかの土地を探すのがよさそうじゃ。エディヴァルの住人共でも滅多に入れない場所が良かろう。引き続き、そなたらには妾を支えて貰うぞ、心してかかれ」 「御意」  真っ黒に塗りつぶされた世界で、悪魔達は死体を前に決意を新たにする。  ああは、ならないように。 ★★★  怪我は切り傷が一つ。すぐに血をぬぐってやれば皮膚は綺麗にくっついた。 「体の調子はどう?」  モリトの血は黄金色をしている。絶対に見られてはならない物の一つだ。  指に付いた血を舐めると、果物の果汁のように甘かった。神木から採れる樹液と同じ味がする。 「そういうこと、しちゃダメ!」  「め!」とモリトに鼻をつままれてやめた。かわいそうなくらい頬を赤くしている。  神木にとって樹液を舐められるのは羞恥を呼ぶものであるらしい。あと、はしたない事とされている。だが、美味しいので隙あらば舐めようと、ハルは反省しなかった。 「二人とも、そのぶんだと大丈夫そうだ」  治療を終えて帰ってきたカルフは顔と腕に包帯を巻き付けていた。悪魔の爪に引っかかれたのだが、それ以外は無事らしい。治療をしていた若い女性のエクソシストが、彼の背中をうっとり見つめているのに気付いたハルは半眼で見上げる。 「どうしました。怪我が?」 「いいえ、ただ聖職者もナマモノって思っただけです。わたし怪我しなかったので」 「それはよかった。女の子が傷なんて作る物じゃない」 「じゃあボクは?」  カルフとモリトは妙に仲良くなっている。クシャクシャと頭を撫でたカルフは言った。 「男の傷は勲章だ。逃げないで戦った証」 「ふふふ!」  ぱちん、と手の平を叩きあってる姿は子供みたいだ。  と、突然カルフが背中を押さえてかがみ込んだ。その向う側に灰色猫が足を上げた状態で立っていた。 「よお! 金ずるとお客様。景気はどうだい?」 「まぁまぁです」 「……私は、ちょっと悪い。腰が……」  だらしないねぇと嘯いたドールは髭をなでつけながらにやっと笑う。 「用は終わったんだ。とっとと撤収するよ。あんたとお客様も一緒に。出発は明日」 「わたし達も、ですか?」 「領主が今日の晩餐に呼んでいます。それが終わったらこの土地には何の用もありませんよ、お客様。悪魔は撤退し、一匹も見つからない。後処理なんぞこの土地に吹き溜まってる肥溜め共がやりゃいいんですよ」  おそらく雌だが、果てしなく口が悪い。 「それともお客様ァ……肥溜めと一緒にお掃除するんですか? その場合はまぁアタシらも残ることになるんですがね?」  刹那、周辺から矢のように視線が浴びせかけれられた。  周囲をゆっくり見渡す。  教会は、扉を開いて怪我人を運び込んでいるため、床や机にも怪我人が眠っている。騎士やハンター、エクソシストまで様々だ。その様々な職業、多岐にわたる人種がそろって「勘弁して!」と熱い眼差しを送ってくる。  ハルは統率の取れたその動きにたじろいだ。ハルがたじろぐぐらいだから、モリトに至っては服を掴んで震えている。 「あー、えー。明日帰ります」  圧力に屈したわけではないが、面倒な匂いをかぎ取ったハルは頷く。するとそこかしこでほっとした溜息が聞こえ、再びざわつきが戻ってきた。 「そうですか。それは重畳ですね。ではこの辺で準備に行かせて貰いますよ。――おいテメェ何「俺は関係無い」みたいな顔してんだよ。テメェも来るんだよぉぉお!!」  顔面は愚か足の先までミイラになっていた男を捕まえてドールが叫ぶ。男は「なぜわかった」とか「ちきしょう!!」と叫びながら引きずられていった。  がん、と乱暴に扉が閉まり「テメェのクソみたいな顔なんざ包帯の下でもわかんだよバァカ!!」と恐ろしい声が聞こえなくなった頃、ハルは息を吐いた。  もしかしたら、明日の馬車では同乗する事になるのではないか、と気付いたときには遅く、何とも言えない表情になった。 「まぁ、搾り取るまで殺しはしませんよ」  カルフは全く安心しない言葉を吐き出して微笑んだ。背後で熱い視線を投げかけてる男女が増えていた。 「手当が終わったなら、領主家へ一度戻りましょう」 「カルフさん、家族は? 一緒に銀行へ戻るんですか」  彼は微笑んだ。 「本当は仕事を辞めて帰ろうと思ったんですが、こうなった以上は戻らなければならないでしょう。いいえ、戻った方が故郷にとっていいかもしれない。私は銀行で働きながら復興のお手伝いをしようかと。……まぁ、ご領主様にそう促されたのですが」  もちろん手足を使って機材を運んだり、壊れた家を修復することも大切なことだ。 「ですが、出て行った人達へ話を伝え、帰ってきて貰えるように声をかけられるのは比較的信頼出来る地位にいる私が適任だと言われ……あと数年は働くことになるでしょう。なんだか、拍子抜けです」  カルフはかがみ込み、二人を交互に見つめた。目の表面にうっすらと膜が被り、眼球が赤くなっている。  慈愛の視線を注がれて、ハルは知らずモリトの手をきつく握りしめていた。大丈夫だよ、と言うようにモリトは両手でハルの手を握る。 「ありがとう」  心から偽りなく出された優しい思いが耳朶を打ち染みこんで、ハルの何かを引き裂いていく。  オンドロード領に来てからおかしい。感情の起伏が激しくなっている。  自分の中の堅い薄皮が剥がれていく事に、ハルは少し震える。それは痛みや屈辱ではなく暖かさを感じさせた。  だが、恐ろしかった。