問いかけに答えはない
肌を綺麗にすると、痣が出来ていた。全部を確認して問題ないと判断したハルは、服を被る。 部屋の外へ行っていたカルフが煎茶を出してくれる。それを飲んでいる間に休んでいるように言われ、ハルは眠そうなモリトと一緒にベッドへ突っ込まれた。カルフはこの後、神殿に行って簡単な魔術の講義を受けるらしい。 柔らかい寝台はけして上等な物では無いが、枕の下に入れられた安眠用のポプリがまどろみを引き出す。 「気分はどう?」 「最悪」 顔色の悪い頬を挟むように手を添えたモリトがもにゅもにゅと揉んでくる。 「本当に行くの?」 眼差しに、いつものような鋭さがない。本性ならば耳が垂れていただろうしょぼくれたハルに、モリトは胸がいっぱいになって巻き込むように抱きつき、布団の上に転がった。 「モリトはいつも何を考えてるの」 「根付く土地は静かで自然豊かなとこがいいな、とか、ハルがもっと穏やかに暮らせる土地は無いかな、とか」 「半分はわたしのこと?」 鼻先をくすぐると、ハルは痒いと文句を言った。 「ハルがボクの事を考えてくれてるのと同じだね」 ねぇ、と少し眠そうな声でハルは問いかける。 「ほんの少し回っただけでわかったじゃない。ここには祈れば神木の芽が出ると思ってる頭が沸いた連中ばっかり。自分が何をしてきたか忘れて全部他人に押しつける。それがまかり通る」 「でも、それが今の世界でしょう?」 「わかってるなら関わる必要なんてない。短命種のことならよく知ってるわ。場所が変わったって同じよ、何とも思ってない他人を殺すなんて簡単なことで、綺麗な人もそうやって死んでいくわ。ここは生き物が住む場所じゃない、この世の地獄よ」 瞳孔が縦に裂ける。虹彩が輝いた。威嚇の悲鳴を見つめてもモリトは揺るがなかった。いつもはあんなに泣き虫なのに。 「それでも、関わることを始めないといけない」 「モリトは何も知らないからそう言うんだわ。理想は現実じゃ無い! 利用されるだけよ、絶対に悪い事になる!! どこまで行ったって混じり合わない。違う規律で生きる者達は慈悲無く我欲にまみれてる! 自分のために他人の首を取ることに長けて、それを平然と行ってる!! あれがその光景よ! 哀れに思って戦ったって、死ぬのはわたし達であいつらじゃない! あいつらと寄り添ったって暖かみなんて生まれない、油断した隙に服をはぎ取られ皮をむしられて、消えない傷が増えるだけよ!」 心が乱れ擬態が溶けていく。顔が伸びふわふわとした毛皮が現れ、体が縮む。すらりとした細い指が毛を纏って肉球になると、そこにいるのは小さな獣が一匹。疲れ果てたように力なく涙をこぼしている。 「短命種の規律は様々だね。同じ事は何もないんだ。神様はどうして彼らの存在を許してるのか、わからないときがある」 「わかるときもあるの?」 「ハルの方がわかるんじゃない?」 「――。……そうね、わたしは神様の規律から外れて生きてきた記憶がある。でも、それでもあそこは平和だった。苦しいことは少なかったわ」 「そこに帰りたい?」 「懐かしいと思うわ。でも、恋しいわけじゃない。……どうしても悪魔を追い払うのね?」 「一緒じゃなくていいよ、待っててね」 「できない……そんなのできないわ」 四肢から力をぬき、眠ってしまった獣を抱き上げ、モリトは愕然としているカルフを見上げた。 「彼女は擬態して……」 「内緒にしてね」 荒く呼吸を吐く弱々しい背中を撫でながら、カルフに向き直った。 「何か用?」 「水差しの水を入れてきたんだ。使用人もいよいよ荷造りして避難するからね。考えを変える気はない?」 「ないよ。進まないと、ハルにとってこの世界はいつまでも地獄なんだ」 様子を見つめていたカルフはモリトの横にどっかりと座った。 「二人の種族とか確執とか詳しくは聞かない。でも危険なことは極力さけるべきだ。私の勝ち得た処世術では、ハルさんの言葉に従った方が安全だ」 零れ出た言葉にモリトは首を振った。 「ボク達にとって悪魔と戦うことは、それほど重要な事じゃないんだ。大変な事でもない」 「これは驚いた、あの騎士さんが聞いたら首根っこ掴まれて王国騎士にさせられる。今のは二人の秘密にしよう」 「ふふふ。ハルが独りぼっちにならなくちゃ、それもいいと思う」 もどかしそうに眠った背中をさすると、むずがるように枕に顔を押しつける。そんな姿を見つめていると、久しぶりにハルの寝顔を見ていることに気付いた。 「……。どうして二人は私を助けようとするんだ? 顔をとったらたいしたことのない、平凡な男だ。君達と関わり合いになるには役不足じゃないかな」 皮膚の下からあふれ出すように張る力を見ることは、きっと短命種にはできやしない。だからモリトは説明しないで、自分のことを話した。 「あなたは一つの可能性をボクに示した。それがどれくらい続くのか、回りもそうなるのか確かめなくちゃいけない。ボク達のために」 「やはり、わからないな」 一抹の寂しさを感じながらモリトは「うん……わかってる」頷いた。慰めるようにカルフはモリトの肩をなで、言った。 「なんとかして、銀行員としてこの地に来たかった。それは戦力の補充が目的で、願いは叶いました。私の役目は九割以上終わったと思ってる」 あと一つはこの地で死ぬことだ。 だが、言わなくてもいいだろう。カルフは薄く微笑む。 「残りはなぁに?」 「お客様を無事にお見送りすること」 カルフ銀行マンはそう言ってモリトの頬を軽くなでた。 「嘘つきだ」 「ははは。だから、手を貸してくれなくていい。私から見たら二人はやっぱり子供なんだ。たくさん眠って、たくさん笑って大きくなって、それから難しい事を考えるのでも遅くないと思わないか?」 「ボクは明日悪魔を退治しに行く。もう変えられないことなんだ」 「約束を破らない種だから?」 それは神に生み出された命の持つ規律に定められた事だ。一度口に出した約束や誓いは永遠に撤回できないから、ハルはあれほど動揺した。 「そうだよ。それに、目的があるんだ」 「なんだろう」 「ねぇ、カルフから見てボク達はどう見える? 主従じゃなくて、対等に見えるかな。ボクはハルが戦うなら一緒に戦いたい。苦しいなら同じ所に行って、それで楽しく暮らすんだ」 「本当に彼女が好きなんだな」 「そうだよ、守りたいと思う。ここから悪魔がいなくなって、カルフがどうなるか見届けたらその方法がわかるかもしれない。自分より強い女の子を守るとき、どうしたらいいのかが。だからきっと死なせないよ。カルフが自分の終わりを決めたとしても」 「……………」 「その命の輝きを最近見たことがあるんだ。その人は死んでしまったけど、でも、綺麗な人だった。綺麗だと思った。ボク達はたまに、自分の本性が虫かもしれないって思うときがあってね。彼らとボクらはとてもよく似てるんだよ」 太陽に向かって枝を伸ばし葉を芽吹かせ、かたや光源に密集する。 モリトはハルの耳元に頬を寄せた。すりつけた肌は柔らかい毛皮の感触を伝えてくる。 「モリト君」 「ボクはハルを守りたいよ。いつか来る別れの後も……」 カルフは口を閉じ、深い夜の静寂が広がった。 ★★★ 生まれたばかりの頃。いつもお腹がすいていた。 腹から抜け出して飲んだ命のミルクは一度きりで、その数時間後には震える四肢を伸ばし、狩りに出なければならなかった。 最初は肉を食べられないため、果物を潰して果汁を舐めた。腹を壊すことは日常茶飯事で、毛皮はぱさぱさに乾いた。でも、吐くことは無かった。 牙が生えそろった頃、狙ったのは兎だ。足が速いが子供ならば追いつける。――そう考えるのは当然の摂理だったし、自分が対象であることも思い知らされたが。 頭上を飛び交う鳥共や草木に紛れる肉食動物にとって、最古の狩人といえど無力な子供はただの獲物だ。 逃げ惑い、崖から落ちた事があった。 そこには川があって、降りると短命種達の住処があった。はぐれたガチョウを一羽仕留め、それを見つけた短命種が桑を持って襲いかかってくる。 冬も近い頃だった。貴重な食料の奪い合いの末、ハルはガチョウを腹に収めた。その報復に山狩りが行われる。その時はずっとレイディミラーの洞に籠もって震えていた。ひもじくて、それ以上に恐怖が体に染みついた。 短命種達がハルの存在を警戒しながら、ほんの少し忘れた頃、川で魚を捕ることを覚えた。川を上る魚は脂がのっていて一口食べるごとに生き返った。 その頃になると山の歩き方がわかってきた。罠の張り巡らされた道も、大きな獣の縄張りも。 ハルを狙ってきた鳥を逆に狩ったときには、体はずいぶん大きくなっていた。そして自分が人であった頃の穏やかな生活は、ほとんど思い出さなくなっていた。 今日を生きるために狩りをすることで頭がいっぱいになり、レイディミラーが言葉をかけてもあまり返事をしなかったのを覚えている。 洞には爪で書かれた絵がたくさんある。短命種の言葉や悪魔の単語。そして神語と様々に。 そんなもの必要ないと言ったが、レイディミラーはハルが狩ってきた獲物を見て「それはこう書くのですよ」精神体をとって地面に書き記した。やがてハルはそれを覚えた。 ハルは洞に書かれたほんの少しの情報から、自分の目が機能を持っていることを知った。 威嚇の虹色の目を使い、狩りは楽になった。 狩りが順調にいくようになり、心に余裕ができた。そうすれば、わずかに残った人としての記憶が零れだし、憧憬が蘇る。 覚え立ての擬態で人の姿に変わり、短命種の所へ顔を出したことがある。それは失敗だった。 好奇心で彼らの生活を覗き、人の営みを見つけ心躍ったのは数刻だけだった。 ハルは村人に見つかった。 かろうじてわかる言葉の端々に「孤児」と「たくわえ」。 相談する話し合いが設けられ、顔が良かったために奴隷商人に売ることが決まったのだと思う。 身元があっても無くても、一人でいる子供が行方不明になるのはよくある話だ。親だって探そうとしないだろう。そう言う話をしていたのだ。 ここだけなのか、それとも全部がそうなのか。ハルにはまだわからない。 奴隷商人に買われたハルは、荷馬車に乗って村を練り歩くことになった。食事は少なく足にはめられた鎖の、なんと重いことだろう。 少しずつ増えていく乗客が一杯になったとき、一つの部屋に押し込められた。 そうして商品として磨かれたハルは、見たこともない、たくさんの短命種に囲まれた。 亜人、獣人、その他、多くの者達が劇場のような場所に入り乱れ、上段に立たされ吟味された。 ハルは好色そうな老人に買われた。彼の屋敷に堂々と入り、執事は慣れているようにメイドにハルを託すと、彼女達はハルを風呂に入れた。 「この仕事、うんざりするわ」「月に一度は多すぎる」とメイド達の噂話を聞いた後、鎖を外されたハルは窓から飛び出した。夜の闇に部屋の明かりがぽつぽつ光っている。 追いかけてくる男達を交わしながら逃げ惑うと、どんどん人気の無い場所に入り込んだ。 スラム街だ。 そこでもハルは獲物だった。綺麗な格好をしたハルは大人にも、子供にも追いかけ回される。捕まえれば服を売っても、突き出しても金が貰えるのだから相手も死にものぐるいになった。 裸足で逃げ回り、時には本性に戻って対峙した。 裏路地の影から朝の様子を観察し、親子連れや職人、旅人――様々な人間が行き交う道を観察した。微笑む者はなく、肩を落とす人間が多い。 この世界はどういう所なのだろう、と困惑したのを覚えている。知っているのは洞での生活と、ほんの少しの言葉。世界の名前さえ、その頃のハルは知らなかった。 観察していくうちに、ハルは服を汚し顔を隠し、ゴミを拾って金に換えることを知った。それから見回りの衛士に捕まって劣悪な状況の孤児院に放り込まれることも体験し、いろんな者と会話した。 日本のように治安の良い場所は無く、国の中は王侯貴族と平民の二つに割れていた。 日常的に暴力と犯罪が行われ、悪い奴を殺しても自衛の一つで罪には問われない事を知った。そしてもう一つ、悪魔を殺すと罪どころか金になる事に気付く。 お金が手に入ってからは、沢山の人間がハルを訪ねてくるようになった。金の無心に物乞いや強盗、汚いスラムのテントに、わざわざ絹の服を着た者が現れて、誘惑の言葉を吐いていく事さえあった。 そういう奴は自分のためにハルを手に入れたがった。悪魔の退治、護衛、そして誰かを殺すために。金貨の裏にはべったりと、見えないが汚い物が張り付いている。それはハル自身にもこびり付き、我を失いそうになる。辛く重苦しい胸の感触は忘れられない。 綺麗な者もいたが、それと深く関わった後は消えない汚れのように後味の悪い結末がまっていた。 彼らは自分の中の規律を大切にし、守って生きている。その規律のために命をかけることを惜しまなかった。カルフのように。 また、力を示すことは簡単に相手を下せるが、必ずしもいい事ではないことも学んだ。弱さを盾に慈悲を請う眼差しの、言い表せない不快さと気持ち悪さは思い出したくもない。 そして救われない、救えないとわかったときの眼差しは、なぜ羞恥を感じて死なないのが不思議に思えるほどだ。 ハルは三年をそうやって過ごし、レイディミラーの元へ帰った。 二回り大きくなったハルを抱きかかえながら、彼女は洞にハルを入れた。まるで世界一大切な宝石を、特別な場所にしまい込むように。 懐かしい腐葉土と木の葉の香りが包み込み、夢を見ないほどハルは深く眠った。 完全に社会に対する憧憬を無くし、かつての自分に似ている短命種達を、彼女はっきり違う物と思うようになった。 嫌なことを思いだした朝は気分が悪い。 太陽の香りに目を開けながら独り寝をしている事に気付き飛び上がる。と、ドアが開き、顔を半分出したモリトが「おはよう!」声をかける。 きっちりと服を着込み、いつでも外に出られるようにしている。その向こうから困った顔のカルフが顔をだし、黒尽めの一団が続々と入ってくる。 「どちら様?」 「おはようございます。朝早くから申し訳ありません。パイロン銀行警備部、第八部隊長ドールと申します」 答えたのはカルフの腰くらいしかない身長の獣人だった。三角の耳を見ると猫だろう。顔は人と灰色猫を半分でわったような顔をしている。 「わたしはハルです。どういったご用件でしょうか」 「我々は視察中に襲われたお客様をお守りするために、馳せ参じました。融資をしてくださったにもかかわらず、すぐに死んでしまっては元も子もありませんしね」 こういう口の利き方が通常なのだろうか。こっそりカルフを伺ってすぐに違うとわかった。 「では、顔合わせはこれくらいにして、我々は悪魔を退治して参ります」 「護衛対象から離れるの?」 「お客様は悪魔にビビるタマじゃないでしょう? 我々と同じ所に立つ者では?」 猫は目を弓なりにした。 「まあともかく。お客様は神様です。神様に手を出したなら黙っているわけには参りません。奴らが滅びるか、我々が滅びるかの戦争なのです。それに、敵が消えればお客様は安全です、もう二度と脅かされることはありません」 ただ戦いたいだけじゃないのか。なんてぶっ飛んだ説明なんだろう。ちっともわからないと胸中で独白する。寝起きの頭には手に負えない人物のようだ。背後に連れている部下達も物騒な武器をさするばかりで異議を唱えない。 「それに奴らはこの銀行員に手を出すかもしれないと聞きました。銀行員は我々警備員の給料を稼ぐ言わば金ずるです。我々の金ずるに手を出したからには容赦はできないのですよ」 「ああえっとね、ハルさん。この人達の言う事真に受けなくてい――」 「テメェラアアアア!! 説明は終わった、かちこみを始めようじゃねぇか。首飛ばされても皆殺せエエエエエ!!」 「オオオオオオオオオオオオオオオ!!」 「戦争ジャアア!」 「久しぶりの大物取りだぜボーナス出せよ銀行員!」 「無かったらテメェの息子引きちぎるからな銀行員!!」 「アヒャヒャ! ぎんこーいーん」 嵐のように去って行ったパイロン銀行警備部第八部隊を見送って、説明を求める眼差しを向ける。 「ええ、銀行の中でも特に喧嘩が得意な人達なんですよ。やぁ。一番怖い部隊がきたなぁ」 「……嘘ですよね」 「部署内でも一番心優しい部隊と言われています」 まさかあれが警備員じゃないわよね、と聞いたつもりが斜め上からの返答。 悟りを開いたかのような無表情で言い切ったカルフは薄く微笑んだ。彼らの言ったとおり、ボーナスが出るかどうかわからないが強く生きてほしい。それからあんな物騒な銀行には極力近づくのはやめようと心に誓った。 「それより体調がいいなら食事にしましょう。運んできましたから」 埃が入らないように布をかぶせてある皿を受け取る。中にはホットサンドがあり、紅茶を入れて貰いながら租借する。その横で濡れたタオルを絞ったモリトがゴシゴシと額をぬぐってくるのを鬱陶しそうに交わす。 「顔洗わないの?」 「ご飯食べてるの。後にして……。ねぇ本当に行くの?」 「ハルが食べたらね! もう悪魔は来てるよ」 思わずホットサンドに咽せそうになるが、モリトは胸を張った。 窓に張り付けば、遠くで煙が上がり、黒い波が見える。 「ハル様方、お早く戦場へ!」 悪魔の群衆が、進行している。 迎えに来た兵士は息を切らせ鋭くハルを見つめていた。